
横浜高女の敦先生 教師・中島敦エピソード集 中編(J-Q)
「中島敦の会」ポスト(ツイート)まとめ2
横浜高等女学校で8年間、教師をつとめた中島敦。
(1933年4月~1941年3月 ※4月より休職、6月に退職)
彼はどんな教師だったのか?
それを知るヒントになるユニークな証言や資料を集めました。
元・同僚や生徒たちの思い出や、横浜学園(元・横浜高女)の資料から、
生き生きとした「教師・中島敦」の姿がつたわってきます。
意外な一面や興味深いエピソードを、キーワードをつかってご紹介します。
※「中島敦の会」のXのポストのまとめです。
※キーワードをアルファベット順に並べました。今回はJからQまでの掲載です。
J
Journey 旅行(修学旅行など)
横浜高女時代の敦は、学校行事で関西(伊勢、京都、奈良)、箱根、日光、銚子・茨城など引率旅行へ参加した。その他にも、職員どうしで登山、温泉巡りなどをしている。
修学旅行
秋は修学旅行シーズン。11月2~4日まで横浜学園高校は3年ぶりに九州・北陸への修学旅行でした。楽しい思い出が作れたのではないでしょうか。中島敦は横浜高女の修学旅行で関西を旅しています。写真は昭和11年(1936)10月22日ころ。春日大社にて。敦は最後列、左から2人目。奈良の鹿は今も昔も⁉ pic.twitter.com/oaCsd0OjoO
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 5, 2022
1939年3月、2年生を引率しての旅行(銚子方面)で職員たちと。「記念写真の撮影で写真屋さんが『早く並んでください』とか言うと…後ろのほうでそっぽを向いたり、他の人が立っていると座ってみたり」教え子の証言どおり、ひとり座ってるのも敦流。「写真(屋)嫌い」の敦にしてはにこやかな表情の一枚。 pic.twitter.com/BGS3SEerb1
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 7, 2022
登山
敦と山の話1
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) August 5, 2023
夏は敦にとって登山の季節でもありました。
1933~38年、登山部の引率や同僚との旅行で
箱根外輪山・尾瀬・日光、白馬岳などに
出かけています。
白馬の小雪渓も先頭を切って難なく通過するなど、なかなかの健脚だったとか。
地下足袋(カンジキを装着)?のような靴がなんかすごい! pic.twitter.com/bgfB5E22MH
K
kyouteki 羌笛
学校誌「ゆかりの梅」に掲載した14首の和歌集のタイトル。見開きで2ページの小歌集。この14首は、のちに歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ~秋冷羌笛賦~」(全131首)にまとめられている。
敦が学校誌掲載の小歌集の題名は
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 6, 2023
羌笛
十一月のころ元町にてたはむれによみはべりける
l'amour s'éteint car c'est l'hiver …Gautier
( 訳/冬来れば愛は消えゆく ゴーティエ)
ゴーティエ(1811~1872)はフランスの詩人・作家。
漢詩を思い出させる「羌笛」とゴーティエの詩を並べるのも敦らしい? pic.twitter.com/Y8ZbtZv6Lm
1937年11~12月頃、中島敦はもうれつ?に和歌を作りました。その数600~700首。横浜高等女学校学校誌に「羌笛」(きょうてき)と題して14首まとめて発表しています。歌稿「霧・ワルツ・ぎんがみ~秋冷羌笛賦」131首から敦が選んで構成した小歌集。「ゆかりの梅」39(1938年3月刊)掲載。 pic.twitter.com/ZXhc1Nvw65
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) December 9, 2022
L
Love 恋愛
1937年3月、受け持ちの生徒を卒業生として送り出した敦。その謝恩会の席上で恋愛についてスピーチした。教え子たちの未来(結婚)を思い贈られたこの話は、聞いていた同僚たちにも強い印象を残した。
敦に先立って同僚教師の平野宣紀氏が「青春はふたたび来ない、よい恋愛を必ずしなければならない」とスピーチ。そのあとに中島敦が立ち上がり、非常にユーモラスに、しかしきっぱりと「必ずとは言えない」と述べたという流れ。 言葉を贈られた卒業生たちは、その後、どんな恋に出会ったのでしょうか?
ちなみに、平野・中島両者とも恋愛結婚をしていたことは、学校で知れ渡っていたそうです。 「汐汲坂 中島敦との六年」(山口比男/えつ出版/1993年)、岩田一男氏談/会報2/1980年)より。 写真は「ゆかりの梅」39/1938年刊掲載の1937年卒業式記念写真。
1937年3月、横浜高女卒業式。この年の卒業生は、中島敦が4年間担任して、初めて送り出す生徒たちでした。人前で演説をめったにしない敦ですが、謝恩会では教え子たちにはなむけの言葉を贈りました。
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) February 28, 2023
「恋愛はたしかにたいせつなことだが、恋愛から結婚への道筋は思慮深くあらねばならない」 pic.twitter.com/xJmpz1Dz8A
M
Makyokansekitou 麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)
喘息に苦しむ敦が飲んでいた漢方薬。教え子の母(看護協会勤務)に紹介された漢方薬剤師から処方箋を手配してもらっていたという。
敦は喘息のため、漢方薬「麻杏甘石湯」を飲んでいました。
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) December 13, 2023
同僚によると、職員室の自分の席で漢薬(麻央・杏仁・甘草 ・石膏・葛根)を調合していたとか。
「これを理科室から借用した小型の台秤にのせて容量をはかるのである。衰ろえ頬のこけた彼が、真剣な眼差しで秤の平衡をみつめている」(会報4) pic.twitter.com/1LfaOflF2b
Magazine club 雑誌部
雑誌部は主に横浜高女の校内誌「ゆかりの梅」、「学苑」を制作。敦は1936年に顧問教諭の中心となり「編集人」として上記の校内誌の他、「記念祭新聞」「体育大会新聞」を担当した。
学校誌「学苑」
1936 年7月、中島敦編集・発行人の学校誌「学苑」7号発行。
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) July 15, 2023
「灯火管制がはじまるまでに」とギリギリまで作業し、「終業式にやっと間に合わせた」一冊。
「緑陰午睡の伴侶ともなり得れば幸甚」(中島敦・編集後記より)
教師生活4年目、精力的に校内外活動をおこなっていた敦の活躍ぶりがわかります。 pic.twitter.com/pU7krRo6Pp
雑誌部の作業風景
横浜高女に就職早々、敦は部活の指導(雑誌部・運動部)も担当。雑誌部では灯火管制の時間ぎりぎりの夜遅くまで制作し、熱心に取り組んだ。「(雑誌を作る上で)未熟さをとり去るよう、しかもそれと同時にこの清新さをも失わないようにして、この我々の雑誌を育てて行きたい」(1933年「ゆかりの梅」35後記) pic.twitter.com/CmMPEiiZqk
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) April 7, 2023
N
No,no,no ノゥ、ノゥ、ノゥ
英語の授業で、生徒が間違った答えをしたときの敦のリアクション?
「坊やが甘えているよう」な口つきだから、先生は末っ子じゃないのかしら、などと作文中で女生徒は書いていますが、敦は長男です(笑)
中島敦は横浜高女で国語のほか英語の授業も担当しましたが、英語も教え方がうまく、生徒の「先生印象記」で(敦に教わって)「英語が楽しくなった」(学苑7/1936年)と言われています。敦の英語、「ノゥ,ノゥ、ノゥ」(坊やが甘えているような)…どんな感じでしょう? pic.twitter.com/yRKFECDT43
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 22, 2022
O
Olympics オリンピック
1936年11月、横浜高女の体育祭がおこなわれた際、敦は「体育大会新聞」制作に雑誌部顧問・編集人として参加。その4か月ほど前の7月、4年後(1940年)の東京オリンピック開催が決定している。その影響か、新聞には「讃えんかな!我等がオリンピアード」という見出しが躍っている。
昨日、横浜学園では体育祭がおこなわれました。写真は学苑の前身・横浜高等女学校で1936年11月に開かれた体育祭の「体育大会新聞」。発行兼編輯人に中島敦。全集などの制作当時は未確認でしたが、近年発見され、2019年横浜近代文学館「魅せられた旅人の短い生涯 中島敦展」で初めて展示されました。 pic.twitter.com/GvopaEpAgm
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 26, 2022
P
Pig ブタのぬいぐるみ
敦の呼び名「トンちゃん」から、トン(豚)→ブタで、ブタのぬいぐるみを作り、敦にプレゼントした女生徒がいた。
「痩せっぽちの彼に、丸々肥ったブタの贈り物とは、何とも皮肉なことだったが、『先生! もっと肥って丈夫になってください』という生徒の願いがこめられているのかもしれなかった」(山口比男/会報12/1990年)
「敦」の音読みから「トンちゃん」と友人や同僚に呼ばれていた敦。それはいつの間にか女生徒達にも知れわたり、トンは豚に通ずることから、敦に派手なプリントの端ぎれで作ったぬいぐるみのブタをプレゼントする女生徒がいた。「そんな時彼は、素直に喜んで有難う、と受けとるのであった」(会報12より) pic.twitter.com/vFiUO5mKNe
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) January 23, 2024
Q
Question 質問
「君たちは哲学ということを考えたことはあるかね?」
ある日の授業中、ふいに敦が問いかけたことに、どう対処すればよかったのか。ある卒業生は、数十年たった後も考え、応えられなかったことを残念に思っていた。
「君たちは哲学ということを考えたことはあるかね?」
— 中島敦の会@NANK (@NANK19751207) November 20, 2023
ある日、敦は教室で唐突にこんな問いを投げかけた。
女生徒たちは「??」シーン、としてしまった…(会報3/卒業生回想)
これは1937年のエピソード。11~12月の哲学者や作家の名を詠んだ和歌「遍歴」をつくった頃の話かな?と思ったり。 pic.twitter.com/7lu4O8SjbM
「あまりの突然の質問で、教室の中は一瞬シーンとなった。 どういう意味なのかはかりかねてオロオロしていると、後方の席から『わかりません』と大きな声が返ってきた。 すると、先生はなぜかちょっと狼狽する様子を見せて『イヤ、いいんだ』と言われたきり、あとはそのことにふれなかった。
『イヤ、いいんだ』とはどういう意味だったのだろう。教師と生徒という格差ある日常から、心を開いて生徒の側に入ってきて話をされようとしたことなのか、哲学と言う言葉に対する反応の思いがけぬ次元の低さに狼狽されたのか、よくわからないが、何か心に持っているものを語りかけようとした。
そのいとぐちを摘んでしまったようで、『わかりません」と先生の口を封じたことが、今となって残念に思われる」(会報3/吉田一美・1939年卒)
今回のまとめはここまで。
R以降は後編に続きます。(近日公開予定)
※「中島敦の会」X(旧Twitter)もよろしければご覧ください。