中島敦と伯父・竦の知られざるエピソード。
中島竦の最晩年の冬、敦はなにを見、なにを感じたのかー。
間近で見ていた関係者の証言と、敦の「ノート」からわかることとは…。
敦の伯父・中島竦 最後の正月
中島敦の伯父・中島竦(1861~1940)は中国古代文字の研究で名高く、後年、白川静(古代漢学者。文化勲章受章者)等よりその業績を高く評価されている学者である。
中島敦の小説『斗南先生』で「お髭の伯父」、森鴎外の小説『羽鳥千尋』では「中島蠔山」として登場している。
優れた業績を残した「知る人ぞ知る偉人」である彼は、甥・敦の仲介で、横浜市郊外の海岸地で一冬を過ごした。
そして、この年の6月、80歳で没する。
これが最後の正月となった。
少女が見た竦の海辺の日々
中島竦最後の年末年始は穏やかな日々だった。
敦も何度か伯父の様子を見にやってきた。
竦の世話をした一家・田沼家の一人娘の清子(当時12歳)が、その思い出を次のように語っている。
80になる竦老人は、横浜郊外の漁村で、冬の陽だまりの中静かに過ごした。
その「お髭の伯父さん」の姿を、中島敦も書き記していた。それは彼の作品に生かされることになる。
『光と風と夢』で結晶した中島竦最後の冬、海辺の散歩
昭和15年(1940年)の正月、横浜の海辺で過ごす竦を訪ねて来た中島敦は、お供をして海岸を散策した。
その時に見た竦の姿を、敦はノートに書き記した。
その思索とイメージが、のちに『光と風と夢』に使われることになる。
それは、どの部分なのか―。
以下、「中島敦の会」事務局長・濱野義男の解説を引用する。
「生きられた」未来の世界文学 中島敦の原風景
<「中島敦の会」事務局長 濱野義男・横浜学園同窓会報(2009年5月)掲載>
中島敦は2009年5月5日生誕百年を迎えた。その記念企画展、『中島敦展 ツシタラの夢』が神奈川近代文学館で6月より開催された。ツシタラとは、サモア語で物語の語り手の意味である。
『宝島」の作者スティーブンソンの西サモア島での最晩年を描いた長編『光と風と夢』(原題『ツシタラの死』)は、次に織り成した『山月記』を含む短編集『古潭』と共に、昭和16年6月、南洋行前の横浜高女時代のラストスパークであり、いずれも翌年「文学界」に発表された出世作である。
『古潭』『光と風と夢』発表の一年前、昭和15年6月、敦がとても尊敬し大好きだった「お髭の伯父さん」中島竦(漢学研究者)は久喜で没するが、その年傘寿の正月を、避寒静養(疼痛)のため、撫山の門弟子で横浜高等女学校理事長・田沼勝之助の別荘(金沢区富岡)で迎え過ごしている。
年の瀬の(昭和14年12月)29日午前、「東京麹町の善隣書院まで迎えに来て貰いたい」など敦宛竦の書簡が三通ある。陽春までの長期滞在だったようで、当時敷地内には田沼要人・ふくご夫妻と清子さんが住んでいた。『国語條理』の清書と富岡海岸の散策が日課であった。
敦の創作ノート第九(横浜高女昭和十四年度入学考査問題の未使用の用紙を裏返しにして綴じたもの)には、『山月記』と『光と風と夢』のメモの間に、竦をモデルとした文章が残されている。
それは、この昭和14年年末から15年年始に滞在中の竦が冬の浜辺を歩く姿を描いたものだった。
以下、その部分を引用する。
※太字については後述。
この「富岡のお髭さん」の海辺のシーンの文章は、現在まで全集の中に埋もれたまま未研究であったのだが、昭和15年1月、生涯最後の正月を迎えた白髪白髯の八十翁の漢学者・竦が、横浜・富岡の海辺を散策する風景を活写して、また『我の意識』について言及されていることも注目される。そして敦の作品『光と風と夢』に見事に吸収昇華され、結晶しているのだ。
文中太字の部分は、「創作ノート九」と「光と風と夢」の共通する文章である。
『光と風と夢』は昭和15年秋頃に書かれた。
その後、昭和17年、横浜で起草後世田谷で清書された『わが西遊記 悟浄出世・歎異』では、悟浄の<我の意識>を求めて、すなおに彷徨遍歴する旅を描く。その世界は、軽やかに明るい光に充たされて、美しい。
<解説 以上>
「お髭の伯父」と敦が歩いた海岸の今
横浜市金沢区の富岡海岸は、1970年代に埋め立てられ、今は公園と住宅地に姿を変えている。
敦と竦が歩いた海岸も、竦が真砂を数えた砂浜も、もうない。
今は失われた富岡の白浜だが、中島敦の『光と風と夢』の表現の中で、「ノート九」の文章の中で、白髪白髯の中島竦がゆっくりと散策する影とともに、永遠にその風景を留めている。