義姉中島タカの思い出 折原澄子
1984年10月2日、中島敦夫人・タカさんが逝去されました。2024年は没後40年にあたります。
中島敦の会では、没年の翌年1985年に会報でタカさん追悼特集を組み、ゆかりの方々から追悼文をいただきました。
その中から、タカさんの義妹(中島敦の妹)折原澄子さんがお寄せ下さったものを紹介します。
義姉中島タカの思い出
折原澄子
お義姉さん、長い間本当にありがとうございました。ご苦労さまでした。あなたほど生涯を人に尽し、愛した人はいないのではないのでしょうか。
思えば、兄との結婚、その時私はまだ幼く、くわしい事情はわかりませんでしたが、中島の家で反対にあったことは事実です。子供心にも口を出すことではないと思いつつ、うすうす事情は察しておりました。今にして思えば、愛情に飢えていた兄を暖かく義姉の母性的愛情によってつつまれたからなのでしょう。後年、横浜時代夏休みに遊びに行った折の、また兄が南洋から帰り、世田谷で一緒に生活した時のことなど、走馬灯のように浮かんでまいります。
横浜でのことです。私が遊びに行ったので、歓待してくれたのでしょう。丸いお膳にはビフテキが二皿出されました。兄はおいしそうにむしゃむしゃ食べています。甥の桓(たけし)は兄の膝の中にちょこんと入り、時々口に入れてもらっていました。私は兄に「お義姉さんは?」と聞きますと、「タカは肉が嫌いなんだ」とすましています。私は田舎者とて、ビフテキ等はじめてで美味しくいただきましたが、傍らで義姉は鮭の切身でお茶漬けさらさら食べていました。後で一緒に暮して義姉は決して肉は嫌いではありませんでした。かえってお魚のほうを好きでないようでした。
また世田谷では、兄の発作が激しくなりますと、一晩中寝ずに背中をさすったり、痰をとったり、昼間は治まりますが、その昼間は防空演習や隣組の何やらに狩り出され、本当に大変 でした。私は感心すると同時に、到底私にはできることではないと思ったものです。
この結婚に対してあれこれ言う人がおりました(ことに中島の親戚の中に)。しかし、私は兄にとって義姉が最高の伴侶であったと信じております。どこにあれほどの自分を犠牲にして尽す人がいるでしょうか。献身的という字そのものの尽し方でした。兄もわがままのし放題でしたが、優しい時はとても優しく、義姉のそれに応える愛情を注いでおりました。
昭和十七年暮、兄が亡くなってからの中島の家は、それはそれは大変になりました。働き手として七十近い父が勤めに出ましたが、戦況日々に悪化、父の郷里の久喜に疎開しました。 そこには伯母(父の姉)がおり、一緒に生活することになりました。伯母はなかなか気難しい人、義姉は父と伯母にまたよく尽していました。その父も久喜から東京への通勤の無理がた たり、風邪から肺炎を起し、二十年の三月、亡くなりました。通夜の日は東京大空襲でした。
私もまさかの時にとっておいた教員免許状の役立つ結果となり、十八年春から白百合高女に、二十年には母校の久喜高女の教員となった次第です。しかし、家計を支えるどころか自分だけがせいいっぱいの状態。申し訳ない思いでした。ご多分に洩れぬ戦中戦後の飢餓生活、加うるにインフレ。筍生活と相成りました。もっとも中島では筍とは違い、皮をむいても中身はなく、皮をむくと空っぽになり、涙が出る玉葱生活だと、泣き笑いしたものです。
その中にあって、明日食べる米がなくても、今日は今日、明日は明日の風が吹くという、気前のよさ、開けっ放しに明るく過ごせたのは義姉なればのことでした。二人の幼子を抱え、 地元の有力者のお店のお手伝いをしたとはいえ、かつぎ屋同然の暮らしをしておりました。 桓、格(のぼる)もその苦労の中に成長しました。
私自身、兄とは兄妹といっても、年齢は違うし、生活はいつも擦れちがい、一緒に暮した期間は最後の世田谷の八ヶ月だけですので、世間でいう兄妹の味はありませんでした。その点、義姉とはその期間も長く、苦労もともに致しましたので、実の姉妹のない私にとって、それ以上ものになっております。ことに結婚後、婚家の姑との折り合いが悪く、私自身も二年余辛抱致しましたが、我慢にも限りがあり、婚家を飛び出して戻った時、義姉は暖かく迎えてくれました。一時は離婚をとも考えましたが、夫と別居という形で、私は教員をつづけ、子供二人は伯母がみてくれることになりました。といっても、八十過ぎの伯母、とても義姉の助けなしには預けて勤めるわけにはいきません。子供たちも「青いおばちゃん、青いおばちゃん」と慕っておりました。青いとは、義姉がいつも青いセーターかブラウスを着ていたからのようです。助けつ助けられつと申しますが、私の場合、助けられっぱなしと存じます。
その間、兄の文名も見直され、上ってまいり、印税もいくらか入るようになりました。桓も高校、大学とバイトをしながらも出、就職。格も大学に入りました。伯母は八十八歳で義姉と私に看取られ、亡くなりました。婚家の姑も折れてくれ、私は婚家に戻りました。そして 桓は結婚、義姉ともども浦和へ世帯を持ち、久喜を離れました。
義姉は久喜に住んでいる頃から、キリスト教を信奉するようになり、また未亡人会の会長をしていた関係で、いつも気の毒な方が出入りしていました。気の毒といえば、私どもも気の毒なほうなのですが……。
気の毒な人がいると、放っておけない性分なのでしょう。浦和へ移ってからも孫の養育はもちろんですが、その間いろいろな方の面倒をみていたようです。時に開くと、孫の話、信仰の話、気の毒な人の話など、話題は絶えませんでした。「中島のおばーちゃん」と皆より慕われていたとのことです。また庭にはいつも花が美しく咲いて途絶えることはありません。私が現在広い庭をもて余していることを見聞きして、私だったらこうするのにとよく言われたものです。
そうこうして孫たちも大きくなり、義姉は老いていきました。この二、三年体調を崩し、 昔ながらの元気はなくなっていたようです。何度か入退院を繰り返しましたが、やはり自分の家がいいと言っていました。
亡くなる二日前、九月三十日、浦和へ寄りました。その日は桓だけで、あとの家族は運動会、文化祭等で留守でした。左半身が麻痺したとのこと、でも頭はしっかりしていました。か細い声ながら「入院はいやだ。私はもうこれで終りだ」というようなことをしきりに言うので、「この頃は治療が進んでいるから、また直ってリハビリをすれば大丈夫よ」と力づけても、首を振るばかりでした。そして、その翌日、子供、孫たち全員に付き添われて入院したのです。一人一人に言いたいことを話したそうです。
その翌日、十月二日朝、私は夫と病院に見舞いました。まだ面会時間でないと許されませんでしたが、看護婦さんがいない間にちょっと覗きますと、静かな寝顔でした。
桓は長期戦を考えて当番表を作っており、亡くなる日は桓夫妻が付き添っていました。十時少し前、呼吸が突然乱れ、肩で激しく息をするようになりました。桓の急報に、医師、看護婦さんすぐかけつけて手当てしてくださいましたが、もう駄目でした。ふっと大きく息をはいて、静かな穏やかな顔に戻ったそうです。この世での役目の終った満足感に満ちた美しいお顔でした。享年七十四、寿命の伸びた現在としては早いほうですが、兄の死後、四十余年よくぞ頑張って家を守り、子を育て、孫を愛し、皆に尽してきました。本当にご苦労さまの一語につきます。願わくば私もあのような最後を願っていますが、義姉ほど心掛けがよくないので無理かと思います。
聞くところによると、義姉は亡くなる四、五日前、信仰の集会に行き、代表者に「夫と自分は宗教は違うが、あの世で一緒になれるでしょうか」と聞いたそうです。代表者が「大丈夫ですよ」と言ったので、すっかり安心したとのこと。中島家は神道なので心配だったのでしょう。いわゆる虫の知らせでしょうか。
また亡くなって病院から自宅へ帰り、納棺の時、業者の方が何か上にかけるものをとの指示に、私は義姉のいつも使っている箪笥の一番上の抽斗をあけた途端、「あっ」とびっくり しました。その抽斗の一番上にはあの着物が揃えてあったのです。その着物とは、兄があとにも先にもたった一枚しか買ってやれなかった、昭和十七年夏、「光と風と夢」で文壇に出 た時、実家帰りのために新調した小千谷紬でした。「あー、これ以上のものはない」と取り 出して棺の中の義姉にかけたのでした。
義姉はすっかり覚悟していたのですね。あまりにも立派で、悲しくて涙がこぼれて仕方がありませんでした。こんなきれいな最後はめったにありません。皆に惜しまれて、通夜も葬儀も、家族と信仰の人たちに守られ、花いっぱいに包まれ、歌と祈りの中の昇天でした。
思い出はいつになっても尽きません。私にとって五十余年の長い間、お世話になりっ放しで、お返しすることもできず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。繰り返します。どうもどうもありがとうございました。
生涯を尽し尽して露に逝く
天国の夫(つま)待つ花野如何ばかり
長き世の終(つい)の眠りのさむるなき
澄子
折原澄子さん略歴
1923年、京城(現在のソウル)生まれ。
中島敦の異母妹。
幼少の頃から『源氏物語』などの古典文学から漱石、鴎外などの近代文学、吉屋信子のロマンス小説まで濫読。
文学関係の仕事を志し、出版社に就職が決まるが、父の反対にあい断念。高校の家庭科教師となり戦中戦後を生き抜く。
戦後に結婚、ふたりの子どもを授かる。
2021年12月15日逝去。享年98。
2021年12月20日発行・中島敦『かめれおん日記』(灯光舎)にエッセイ「兄と私」が掲載される。
※今回の発表に際し、折原澄子様ご子息・折原一様に多大なご協力をいただきました。厚く御礼申し上げます。
初出/中島敦の会 会報7号(1985年8月発行)
トップ写真/中島タカ・日光にて 1953年7月(中島敦の会「お父ちゃまのこと」より転載) 提供/中島家