【コラム】地方都市で過ごす滝本晃司っぽい優雅な一日
音楽を聴いていて「?」と思っていた単語や表現が、ある瞬間「!」になった経験って、あるよね。
随分と馴れ馴れしい書き出しになってしまったが、多分みんな一度はそういう経験があると思う。子どもの頃は『ケロロ軍曹』のOPの「買った方が安いね晩のおかず」という詞があんまりピンと来なかったのだが、大人になった今、こんなに共感できる詞は他にないと思っている。揚げ物系は量にもよるが1人分ならマジで買った方が安い。
そんなことじゃなくても、ふと肴が炙ったイカでよくなったり、友人の結婚の報せを聴いて固い絆に想いを寄せたり、誰かに会いたくて会いたくて震えたりすることって、初めて曲を聴いたときには「いや~まさか」と思っていても、数年越しに突然“来る”ことがある。
こういうような体験を、私は「歌詞が自分に“会いに来た”」と呼んでいる。
じゃあ逆に、めちゃくちゃ難しい歌詞を理解するため、「歌詞に自分から“会いに行く”」ことは可能なのだろうか。
それも「サザンの歌詞に出て来た湘南スポットを聖地巡礼!」みたいな感じのやつじゃなく、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」みたいに複雑怪奇な歌詞に対して。もちろん法に触れない方法で。
そんなことを考えていたとき、滝本晃司(元たま/エコーユナイト)のライブに行った方のこんなツイートを見かけた。
「家族全員でこの曲の歌詞通りに床を足で雑巾がけしてます」?!
「歌詞通りに雑巾がけ」?!
「歌詞通りに」?!
えっ、滝本さんの曲って現実的なモチーフがあるの?!
ご存知の通り、たまはメンバー4人全員が作詞作曲するバンドであり、4人はシュール・現代芸術的な世界観を基本としつつも、作品には(当たり前だけど)それぞれのバックグラウンドと個性がある。
その中で、滝本晃司の詞はトップクラスに難解だ。どの曲も耽美で繊細なんだけど、描かれているシチュエーションにはモチーフがあるのか無いのか見当がつかない。加えて他のメンバーと比較してインタビュー等の露出も少ないため、音楽性の根源がどこにあるのか掴みづらい所も解釈を難しくしている。
個人的には滝本曲をシティポップならぬ“地方都市ポップ”“ベッドタウン・ポップ”だと思っているのだが、その理由もハッキリ言語化できない。
しかし“グルグル部屋中をめぐるなぞのなぞり旅”が“部屋中を足で雑巾がけすること”なんだったら、他の歌詞についても日常的なモチーフがあるのではないだろうか。
そこで私は考えた。滝本晃司の曲の登場人物になったつもりで1日を過ごしてみたら、滝本晃司の曲に描かれてるモチーフやエモさの正体を感じられるんじゃないか?と。
地方都市で過ごす滝本晃司な一日
■9:30 朝は遅めに起る
「さよならおひさま」「ふたつの天気」にもあるように、滝本晃司の曲にはたびたび“遅く起きた朝”というフレーズが出てくる。それに倣っていつもより2時間半遅い9:30に起床。晴れた日をわからせてくれる窓を空けて風の匂いを嗅ぎ「夏です」と1回言う。
起床後には「青空」に倣いコップに半分だけ注いだ冷たい水を飲む。アーティスト本人は珈琲にこだわっているようだが、楽曲の中には“水”がよく出てくる。
この“遅く起きた朝”“冷たい水(水)”らへんは多分何かの象徴なんだと思うが、滝本晃司ではない筆者にはよくわからない。ただ「丁寧な暮らし」っぽくは無いし、滝本曲における“朝”の気怠さはむしろ後朝っぽく感じた。
ところで「さよならおひさま」っていわゆるモーニングルーティンの曲だよね。
■10:00 朝ごはんを食べる
朝はフランスの家庭料理・キュルティバトゥールを煮込む。なんかオシャレな名前だが要するに普通の野菜スープである。
「ワルツおぼえて」の“口紅も煮込む”って歌詞は、口紅をした女性がスープをちょっと掬って味見して、そのスプーンを鍋に戻す様子を描写してるんじゃなかろうか。
主食はどうしようと思ったが、米食っぽい知久曲に対して滝本曲には主食のイメージがあんまり無い。オシャレにハード系のパンを食べている気もするが、そんなにオシャレか?という感じもある。
何より「朝にスープを煮込み、固焼きのパンを浸して食べる」ような意識高い系の暮らしをしている人がくるったように踊りを踊りつづけてぶっこわれた笑い方を楽しむとは思えない。
そもそも「夏の前日」「丘の上」みたいな詞の世界の住民は何を食っているというのだ。“いろんなイキモノ体中につめてパンパンに”って何のことなんだ。
悩みつつスーパーを歩いていたとき、こんなものを見つけた。
たべっ子どうぶつ。
これ“身体に詰められるいろんないきもの”じゃん。
■10:30 市営バスに乗って市民プールへ
この日は市営バスに40分ほど揺られて地方都市・千葉ニュータウンへ。ちょっと遅い時間に起きたのはこのバスが最寄り駅に停まる時間に合わせるためでもある。
余談だが千葉県印西市はバス事情が微妙で、人口が10万人規模なのにバスの本数が1日10本以下って所がけっこうある。しかも北総線沿いの地域になると電車も1駅300円くらいだからいろんな意味で交通事情がめちゃくちゃ悪い。
ゆえに学生たちは高校受験の時期に初めて切符の買い方を知るヤツがいるし、バスの乗り方は永遠にわからない。私も全然わかんなくて困った。
ちなみに走ってるバスの外観はこのサイトに載ってる感じ。青くてちっちゃくて実にファンシー。
■11:00 平日の市営プールの底で水面を見上げる
午前中の目的地は印西温水センター、要するに温水プールである。
ここはスポーツセンター系を除くと印西市唯一の水泳施設で、隣にあるゴミ処理場の排熱を使って水を温めているそうだ。あと何年かで移転するとかなんとか噂を聞いたが、実際の所どうなのかは市民にもわからない。
近隣地域の子どもたちは夏になると往復10キロもの道のりを自転車漕いでここまで来る。監視員は中学生と見ればすぐ笛を吹くし、本当に何の変哲もない、オモチャも滑り台も無いただの25mプールがあるだけなんだが、それでも子どもたちには楽しいのだ。
安藤も例に漏れずそんな子どもだったが、ここに来るのはもう5年ぶりくらいになる。いつ来ても薄暗く湿度の高い施設で、タイルカーペット張りの床はどこを歩いてもうっすら塩素のにおいがした。
プールに入ると底は塗装も剥げ、銀色にキラキラ輝いていた。
透明で生温い水の底から水面の揺らめきを眺める。何一つ思い出せないし何かがわかるわけでもない、そんな時間だった。
泳ぎ終えたら生温い風が吹く二階の更衣室で着替え、張り紙だらけの階段を降りて一階の大浴場へ行く。大浴場は半地下かと見紛う暗さで、清潔ではあるが天井の端は錆付いていた。
■12:00 予定外のハプニング
プールで程良い気怠さを作ったあとは昼食を食べに出かけようとしたが、行こうと思っていた丁度良い感じの店が閉まっていた。これは由々しき事態である。
仕方がないので近くのイオンモールで涼みつつ「丘の上」を聴いて次の予定を考える。
この楽曲の摩訶不思議でのったりした雰囲気は実に非現実的で良い。特に“大きな観覧車の見える丘の上”ってフレーズの牧歌的ながら終末的な雰囲気はたまらない。
幾ら滝本曲に(私が勝手に)地方都市っぽい雰囲気を感じているからって、例外は当然ある。「丘の上」なんてその筆頭だ。もともと謎めいた歌詞で現実的な再現性が薄いし、だいいち地方都市に観覧車なんてあるわけが……。
……いや、あったわ。
そういえばあったわ。
■13:00 観覧車の見える丘へお散歩に向かう
千葉ニュータウンから電車で1駅、ここはくるりの「トレイン・ロック・フェスティバル」に名前だけ出てくる印西牧の原駅から直結のショッピングモール・BIGHOPガーデンモール千葉ニュータウン。
このショッピングモールにはデカい観覧車がある。あるだけで別に何ということもないのだが、観覧車は、ある。
しかも都合よくコイツが見える丘も、ある。BIGHOPから徒歩約1キロ、牧の原公園の中心に位置する標高41メートルの築山。ここを登るとBIGHOPの観覧車が一応見える。マジで“一応”見える。
ところで「丘の上」には“タテ向きの写真”というフレーズがあるのだが、スマホで撮った写真は縦向きがデフォルトなので“タテ向きの写真”が死語になりつつあることに気が付いた。
あの頃のフィルムカメラやデジカメの写真は横向きがデフォルトだったよね。
■16:00 帰宅
バスに揺られておうちに帰った後は汗まみれの身体を流して軽くお昼寝し、同じ場所で目を覚ましておやつの時間。もちろん風邪薬を7錠飲む(※実際はお菓子)。
ついでに珈琲を淹れ、穴のあいて膨らんだお菓子ことシュークリームを食べる。
このシュークリームは千葉と茨城にあわせて20店舗くらいあるスーパー・ランドロームが作ってる「真面目シュークリーム」というやつで、話によると真面目に作り過ぎて売れれば売れるほど赤字になるらしい。
なんとなくだが滝本曲の登場人物はオシャレな洋菓子店情報よりも、スーパーの隅のベーカリーコーナーの美味いものを熟知してそうである。
食べながら、滝本曲の変遷について考える。
たま初期における滝本曲は、ちょっとだけ“語彙をひねり出している”感じがした。知久・柳原・石川という強力な個性に対し、自分の立ち位置を探っているような感じというか、ちょっと表現が浮ついた感じというか。
特に「日本でよかった」「ワルツおぼえて」あたりは他の3人があまり使わない表現を探し慎重に作られているように思い、個人的にはあまりピンと来ない時期もあった。
しかしそこに“きみ”という存在が入った途端、滝本曲の質感は急激に強まる。
“きみ”の多用は知久曲の特徴でもあるのだが、滝本曲のそれはより一般的なラブソングっぽい。それでいて曲で描かれるふたりは恋に恋する関係ではなく、おそらく同じベッドで当たり前のように目覚め、無言の時間を当たり前に共有していて、スプーンを磨くようなちょっとした当たり前の日常を一緒に過ごしている関係だ。
これは多分、2023年のアーティストが一生懸命書こうとしている“無言の時間も心地よく、互いの個性を認め合うエモい恋人関係”のひとつである。
誰もがこれを書こうと語彙をひねくり回し、共感できる曲を探している理想の関係。それがごく自然に楽曲内に描かれている。
つまり、もしかしたら滝本曲のキモは“きみ”の存在なのかもしれない。
(ただおそらく滝本曲に出てくる“きみ”の大半は恋人というより奥様や子ども的な存在だと思う)
……とか言ってたら「ワルツおぼえて」には“きみ”が出てくるし、名曲「日曜日に雨」は“きみ”が出て来ないことに気が付いた。爆速で理論が破綻している。
■17:00 お絵描きタイム
夕食を作るには少し早い時間だったので余暇にはお絵かき。昔買ったカラーペンを使って、いつまで経っても上手く描けそうに無い太陽の絵を描き、カラフルで汗だくの色キチガイになってみる……のつもりだったが諸事情によりペイントで色塗り遊び。申し訳ない。
この企画をやってみて気が付いたのだが、滝本曲には意外と現実的なモチーフがあると思う。具体的な根拠といえる根拠も無いんだけど、
「この歌詞ってこういうことじゃね?」
「この歌詞の世界に生きてる人って、こういうことしてそうじゃね?」
を幾つも積み重ねていると、ふと「あれ?この曲ってめちゃくちゃ身近なことしか歌ってないんじゃね?」と思う瞬間が来る。
たとえば「眠れないぼくの夜のまんなかで」はとてもミステリアスな歌詞だけど、“きみ”は花や鳥のモビールが回る揺りかごの中に眠りながらぐずる赤ん坊で、“ぼく”はそれを見守る父親だと解釈するとツルっと筋が通る。
「ハダシの足音」も似たシチュエーションで解釈できるけど、こっちは“天体望遠鏡で見る計算機の数字=星図を見ながら天体観測している様子=眠っているのは赤ん坊ではなくもう少し成長した子ども”みたいにとらえられたりもする。
滝本のソロ曲「カタチ」もあまりに抽象的な詩に思えるが、平日の市民プールで泳いでいたとき、不意に「こういう状況なんじゃないか?」と考えた。いろんな人=カタチが集まって、集まったり沸き立ったり挨拶をしたり、その姿が水に揺らいで歪んだりして。思い浮かべるモチーフは人によって変わっても、案外日常的な風景なんだと思う。
そんなことを考えながら暮れ行く空を眺め、今ここにあるこんな風な空気を水に溶かした炭酸水を飲む。
普通の曲が“炭酸水”“サイダー”、エモい曲が“ソーダ水”って呼ぶならば、滝本曲はこれを“空気の溶けた水”って呼びそうだ。
■19:00 夕飯
夕食どきとなったのでいつもと同じキッチンで何度も食べたラーメンを作る。
豚バラに塩コショウを振り、葱や生姜を放り込んで下茹でをして、醤油と砂糖で煮込む。
その煮汁を使ってスープを作り、少し固く茹でた麺を絡める。
メンマや玉子も盛れば「どこにでもあるような普通のラーメン」の出来上がりだ。
そのラーメンをいつものテーブルで食べていると、これこそが“何度も同じ場所で 何度も似たようなことをしよう”だと気が付いた。
同じ場所で似たようなことをする。それはまさに「生活」のことである。私たちは毎日同じ場所で似たようなことをして、時々変わったことをしながら無言の夜に沈む。
摩訶不思議な言い回しで曲がりくねった「パルテノン銀座通り」の日常は、薄皮を一枚一枚剥いで行けばただ当たり前の日常風景を描いた曲なのかもしれない。
歌い出しの“とても君らしい時間に 君がぼくの目の前にいるので/どうしようもなくなってぼくは 顔の無い顔に話しかける”という謎めいたフレーズにも、意外とごく普通のモチーフがありそうだ。
たとえば“通話相手の後ろ姿を大通りの向こうに見つけたけれど、声を掛けようにもかけられず電話越しに話し続けてる様子”とか。
この場合の“顔の無い顔”はたぶん、電話帳のデフォルトアイコンだ。
アルバム『パルテノン銀座通り』がリリースされてから26年。今、私たちはSNSのアイコンという「顔を出していない顔」に話しかけ続けている。
■20:00 就寝準備
筆者が住むあたりには歩道橋が無く、街灯も少ない田舎なのでこれから夜の散歩に出ることは厳しい。そのため夕食の後は口ごもるニュースを眺め、ブラジルはいま朝かなあと考えながら乾いたシャツを着て寝る準備をする。
楽曲解釈をするときは「この歌詞ってどういう意味?」を考えがちだが、「この歌詞って何をしてるの?」には意外と思い至らない。しかし、アーティストによっては後者の手段で考えていったほうが理解への突破口が開けることもある。
たとえば今日、バスの時間にあわせて遅めに起きたとき、「これは地方都市ならではのことだな」と思った。
バスが一日に数十本来て交通網が張り巡らされた都心では、バスや電車の時間に合わせて起きるということが少ない。してもせいぜい特急や始発に乗りたい程度のことで、「7時のバスの次は11時のバスか……」みたいなことは滅多に無い。
そうやって細かく考えて行くと、滝本曲は確かに“地方都市ポップ”“ベッドタウン・ポップ”っぽい所がある。今回は滝本曲に描かれた「場所」「行動」に注目したわけだが、滝本曲にはやたら“空”の描写が多い。関東の地方都市は高い建物が少なく遠景に山も無いので空が広いのだ。
たまに出てくる“市営プール”“市営駐車場”という言い回しもいかにもそれっぽい。市営施設は都会にも幾らでもあるのだが、サーカスがやってくるほど広く、しかも使用率が低い市営駐車場は地方都市感がある。
こういうようなことを考えて行くうち、滝本曲の“エモさ”の正体も見えて来たような気がした。
純喫茶のメロンソーダや深夜のコインランドリー、誰もいない教室に、夏休みの終わったプール……そんな「被写体を探してシャッターチャンスに出会いに行くエモさ」は、滝本曲にはあんまり見られない。
その代わり、滝本曲には「どこにでもある日常のふとした瞬間にシャッターを切ったようなエモさ」がある。前述のエモがプロの写真家による装丁の美しい写真集を眺めるようなエモさなら、滝本曲のエモは知らない家族のアルバムのページを手繰っているようなエモさだ。
子どもの寝顔を眺める夜の根拠がない憂鬱とか、オモチャが散らばった部屋の哀愁とか、気怠い朝にコップの結露が床に垂れたこととか、ふとした瞬間のわけもない苛立ちとか、暑い日に感じるサウナみたいな息苦しさとか。
たぶん滝本晃司というアーティストは、そんな日常のささやかな瞬間や小さな思い出を独特の語彙と視点で描くのが上手いアーティストなんだと思う。
逆に言えば、この「日常風景という下敷きの有無」「ファンタジーではなくドキュメンタリー」という点こそが、滝本フォロワーの楽曲と本家本元滝本曲との違いなのかもしれない。
「曲の登場人物ならどんな写真を撮るだろう?」
「この感情をどう言葉にあらわすだろう?」
「今この眼に見える部屋の風景をどう書くだろう?」
ちょっとだけこの視点を持ってみると、音楽にはこれまで全く見えてこなかった別の一面が見えてくる。
……とか言ってるけど、このコラムはアーティスト本人に確認したわけではないので、実際どうなのかはわからない。そのことだけは注記しておきたい。