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パワー・ステーションとアーケイディアの頃のデュラン・デュラン


デュラン・デュランは分裂していた?

先日、X(旧Twitter)で、「デュラン・デュランは、パワー・ステーションとアーケイディアの活動の時点で分裂状態だった」という書き込みがあり、そうだったっけ?と思い、検証記事を書いてみようと思います。

時系列を追ってみる

2つの別プロジェクトが始動した頃のデュラン・デュランはいろんな動きが錯綜しており、私も正確には覚えていなかったので、ここでまず前後の振り返りをしてみましょう。

  • 1984.11 ライヴ・アルバム "Arena" 発表

  • 1984.11 バンド・エイド "Do They Know It's Christmas?" に参加

  • 1985.3 ジョンとアンディがパワー・ステーションを結成、アルバムを発表

  • 1985.5 映画「007/美しき獲物たち」(A View to a Kill)の主題歌がヒット

  • 1985.7 デュラン・デュラン、パワー・ステーションともにライヴ・エイドのフィラデルフィア会場に出演

  • 1985.11 サイモン、ニック、ロジャーがアーケイディアを結成、アルバムを発表

  • 1986.2 ジョンの初ソロシングル "I Do What I Do"(映画「ナインハーフ」の主題歌)を発表

  • 1986.4 ロジャー、過労を理由に脱退

  • 1986.6 アンディが元セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズとの共作であるシングル "Take It Easy" (映画「アメリカン・アンセム」収録)を発表、この頃ロバート・パーマーのアルバム参加や「マイアミ・バイス」への曲提供などアンディの課外活動が増え、既にファースト・ソロ "Thunder”を制作

  • 1986.秋 アンディ、バンドを脱退

  • 1986.10 デュラン・デュランとしてアルバム "Notorious" 発表

こうやってみると、確かに分裂・解散危機のように見えるわけですが、パワー・ステーションからアーケイディアの間に"A  View to a Kill"やライヴ・エイドといったデュランとしての活動もあったわけで、個人的にはそこまで分裂しているようには当時思えませんでした。むしろ危なかったのは "Notorious"制作時のアンディ脱退劇で、ロジャーの場合は84年頃にはすでに脱退が基調路線だったのに対し、アンディの場合にはアルバム制作にも一部参加しており、メンバーもちょこちょこスタジオから姿を消すアンディへの不信感が強かったそう。

キーパーソン、アンディ・テイラーはなぜ脱退した?

デュラン・デュランの中心はニック、ジョンに加え、サイモンですが、サイモンは最後にバンドに入った割にデュランへの思いが一番強い(そのためにほとんどデュラン以外に課外活動は現在に至るまでやっていない)ので、この時期のバンド危機のキーパーソンはアンディだったと考えられます。アンディ・テイラーの脱退理由はアンディの自伝(日本未発売)に書かれていそうですが、残念ながら未読なので以下は想像で。

デュラン・デュランにおけるアンディの立場はというと、あまり強くはなかったと思われます。そもそもがニックとジョンによってバンドが結成され、その後、ロジャー、アンディ、サイモンの順でバンドに加入。ソングライティングの中心はニックとジョンで、そこにサイモンが歌詞と歌メロを加えていくような形がメインだったよう。その意味ではアンディはあくまでバンドのギタリストのみの立場だった模様。
そのせいかデュラン・デュランの楽曲ではギターソロがほとんどなく、基本は
バッキングのみでした。83年のサードアルバム "Seven and The Ragged Tiger"でもそれは同様で、ギターソロらしいギターはせいぜい"The Seventh Stranger" くらいで、そもそもギターサウンドが目立つのが "Union of the Snake"くらい。MVではサイモンとジョンが主にスポットライトを浴びるといった具合で、アンディがその状態を楽しんでいたのか鬱屈していたのかはこの時点では分かりかねますが、いわゆる一般的なロック・バンドのギタリストとしては目立たない裏方的な立ち位置に置かれていたのは確かでした。

パワー・ステーションの結成とアンディの覚醒

ところが、パワー・ステーションではアンディのギターが炸裂します。正直、「ここまで弾ける人だったのか」と誰しもが感じたはず。アンディ自身の意識もここで大きく変わったのではないかということは、この後のアンディの盛んなソロ活動からも窺えます。

そもそもですが、ジョンがアンディを誘った点が興味深い。前述の通り、元々デュランはジョンとニックが始めたバンドだったわけで、当初はジョンがギタリストでした。ところがサイド・プロジェクトであるパワー・ステーションではジョンはニックではなくアンディを誘ったわけで、この時点でデュランの活動にジョンが煮詰まり感を持ったかニックと揉めたかではないかと。

彼らのルーツから考えると、ニックはおそらくはニュー・ウェーヴ、エレポがメインで、特にジャパン(1stアルバムはミック・カーンにプロデュースを依頼し、断ったという話がある)に影響を受けています。かたやジョンはグラム、ファンクの影響が強い(ベースラインからもそれが窺える)。そこでパワー・ステーションではシックと組むわけですが、アンディはパンクやハードロックの影響が強い。アルバムでアイズレー・ブラザーズの "Harvest for the World"のヴォーカルも取っていたことを思うと、ファンクにもそれなりに関心があったのだろうと思われます("Harvest〜"は原曲がファンクではありませんが)。そこでパワー・ステーションのコンセプトが「シック+セックス・ピストルズ+ハードロック」であったのでしょう。
兎にも角にもここでのアンディはまさに水を得た魚状態でギターを弾きまくってました。その楽しさに目覚め、さらにソロとしてハードロックを志向したのではないかと。

カウンターパーツとしてのアーケイディア

一方、ニック主導によるアーケイディアですが、こちらはパワー・ステーションへの対抗という側面は少なからずあったでしょう。
というのも、84年末のシングル "The Wild Boys"はナイル・ロジャース、パワステ始動後の85年の"A View to a Kill"はバーナード・エドワーズのプロデュースで、おそらくはシック好きのジョンの推薦でしょう。また曲調的にもエレポ色はそれまでより薄く、ロック色が強い感じでした。
となると主導権がジョン中心になるわけで、ニックがそれに対して危機感を持ったのではないかと思えるわけです。
ニックとジョンの共通の音楽的嗜好にデヴィッド・ボウイがあったわけですが、アーケイディアはそのボウイやロキシー・ミュージック、ジャパン(土屋昌巳も参加)あたりの欧州趣味を基調としています。そして興味深いことにプロデューサーには"Seven and the Ragger Tiger"を手掛けたアレックス・サドキンが再び手掛けています。要はジョン主導のシック寄りから戻そうというプロジェクトではなかったかと。

折衷作としての "Notorious"

結局はジョンもニックもデュランを再始動させることにし、アンディの脱退劇にもめげず "Notorious"を制作します。面白いことにこのアルバムのプロデュースはナイル・ロジャース。ということはジョン主導かと思いきや、収録曲はファンクっぽさが強調されたアーケイディアっぽい。ということで、パワステとアーケイディアの要素をうまく融合させようとした節が見られます。
ただ、タイトル曲こそ大ヒットしたものの、後のシングル、そしてアルバムも以前と比べて低迷する結果となり、それは94年の"Ordinary World"の復活まで後を引くことに。とはいえ、両者の折衷的なアプローチはむしろその次の"Big Thing"で上手くいっていたと思います。

そう考えるとパワステ、アーケイディアは彼らのキャリアにとってはやはり重要な分岐点だったわけで、それがプラスだったのかマイナスだったのかは難しいところですが、あの二つのサイド・プロジェクトがなければ分裂していたかもしれないし、現在に至るまで活動が継続することもなかったのではないかと。そう感じた次第でした。

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