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80年代の英国男性アーティスト三人衆:ポール・ヤング/ハワード・ジョーンズ/ニック・カーショウ

日本でも人気だった三人

ポール・ヤング、ハワード・ジョーンズ、ニック・カーショウといえば、80年代初めから中期にかけて英国を代表する人気アーティストでした。とりわけポール・ヤングは"Everytime You Go Away"で全米1位、ハワード・ジョーンズも9曲の全米トップ40(うちトップ10は2曲)のヒット曲を持つなどの実績を持ちます。もちろん彼らは日本でも人気が高く、今でも根強いファンがいます。何しろ三人ともあのライヴ・エイドにも出演したくらいだったんです。

ところで彼らに関してはブレイクしたのがソロという共通点だけでなく、1stアルバムが大ヒットしたということ、そして…3rdアルバムでセールスを落としたということです。それではそれぞれのアーティストについて当時の思い出とともに触れてみましょう。

「ミュージック・ライフ」誌イチオシのポール・ヤング

80年代洋楽派のバイブルの一つが「ミュージック・ライフ」誌。私も愛読者でしたが、この雑誌はミーハー的な視点(直感的とも言える)での作りが特徴でした。日本で人気が極めて高いアーティストはミュージック・ライフによる推しの影響力があったことは間違いありません。具体的には70年代のクィーン、ジャパン、80年代はホール&オーツ(というかダリル・ホール)、そしてこのポール・ヤングであり、この後は「チャリ坊」ことチャーリー・セクストンです。特にホール&オーツやポール・ヤングの日本での売り出しに関わっていたのは当時の同誌の東郷かおる子編集長。彼女の好みはルックスもさることながら、性格の良さもあったようで、東郷さんの著作によるとポール・ヤングはその中でもロバート・パーマーに並ぶほど性格が良かった人らしい。

東郷さんが推した割には日本でそこまでブレイクした感がないポール・ヤングではありますが、認知度が高いことは確かですし、セールスも悪くありませんでした。私個人は「(俳優の)大和田伸也さんに似ているな」というものでしたが。

ポール・ヤングはもともとQティップスというブルー・アイド・ソウルのグループで活動し、その後CBSからソロでデビュー。1stアルバム"No Parlez"が新人としては記録的な大ヒット(英1位・米79位)。シングルもマーヴィン・ゲイの"Whenever I Lay My Hat"が英1位、ジャック・リー(ブロンディの"Hanging on a Telephone"の作者)の"Come Back And Stay"、フォー・プレップスの"Love of The Common People"、ジョイ・ディヴィジョン(!)の代表曲"Love Will Tear Us Apart"といったカバー・ヒットを次々と飛ばします。このようにポールはニックやハワードと異なり、シンガーソングライターというよりブルー・アイド・ソウル系のシンガーとして人気を集めました。

2ndアルバム"The Secret of Association"ではアメリカでも"Everytime You Go Away"(ホール&オーツのカバー)で前述の通り1位を獲得(英4位)、アン・ピープルズの"I'm Gonna Tear Your Playhouse Down"(英9位・米13位)、自作の大傑作ナンバー"Everything Must Change"(英9位・米56位)もヒット。アルバムは英1位・米19位と絶頂期を迎えます。東郷かおる子さんの嗅覚の凄さはこれらのアメリカブレイク前にポールに目をつけていたこと。お見事です。

ところが…問題の3作目、"Between Two Fires"(英4位・米77位)はアルバムこそイギリスではヒットしたものの、シングルが惨敗。一番ヒットしたものでも"Wonderland"でも英24位止まりで、アメリカでもアルバム・シングルともに惨敗を喫します。

ヒットしなかった要因を振り返ってみると、セカンドまではエレクトリニクスを駆使した派手なバッキングがサードでは消え、地味になってしまったことでしょうか。彼のヴォーカルが引き立つという点ではむしろサードの方がいいくらいなんですが、当時の音楽シーンの中では地味すぎて…という感じでした。上記の"Some People"(英56位・米65位)など良い曲だと思うんですが。実はこの頃、ほぼ同時にブライアン・アダムスが"Reckless"に続き"Into The Fire"、コリー・ハートが"Boy in The Box"に続き"Fields of Fire"といったアルバムを出し、どれも"Fire"という単語がタイトルに含まれ、しかもどれも大ヒットした前作と比較して地味になったという共通点も。

ポールのこの後は、アルバム"Other Voices"(英4位・米142位)、そしてベスト盤はイギリスではヒットするものの(英1位)、シングルは90年の"Senza Una Donna"が英4位を記録したくらいとなり、アメリカは同じく90年の"Oh Girl"が8位、その後はチャートインすらせず。日本でもほぼ姿を消す状態に。それでも全米1位のヒットを飛ばしただけ、後の2人よりはまだ良いのかもしれません。

音楽評論家も絶賛したハワード・ジョーンズ 

ポール・ヤング同様、1stから売れまくったのがハワード・ジョーンズ。カジャグーグーやフロック・オブ・シーガルズのようなツンツンヘアも印象的でした。彼の音楽性はエレポでOMDの影響を受けつつも、一方でプログレやスティーリー・ダンあたりにも影響を受けていることを公言していました。なるほど、ヒット曲"New Song"のメロディーはピーター・ガブリエルの"Solsbury Hill"とよく似ており、また後年はドナルド・フェイゲンの"I.G.Y."もほぼ完コピでカバーしています。

1st"Human's Lib"はいきなりの英1位。うるさ型の日本の音楽評論家も軒並み絶賛、その瑞々しい音楽性が高く評価されていました。イギリスでは"New Song"(英3位・米27位)、"What Is Love"(英2位・米33位)、"Hide and Seek"(英12位)、"Pearl in the Shell"(英7位)、さらにシングルのみで"Like to Get to Know You Well"(英4位・米49位)も大ヒット。アメリカではアルバムこそ59位でしたが、"New Song"、"What is Love"は上記の通りトップ40入りし、三人の中では最も早くアメリカ制覇に近い人でした。

当時の日本での人気も高く、イギリスで発売された12インチ・ヴァージョンをまとめたミニアルバムが2枚も日本で発売(ミニアルバムが当時発売されるのはごく一部のアーティストでした)されたことからもうかがえます。

2nd "Dream into Action"(英2位・米10位)からのシングル"Things Can Only Get Better"が英5位・米6位の大ヒットに。そして4枚目のシングル"No One Is to Blame"は当時ヒットメイカーのフィル・コリンズが参加し、リミックスしたものが米4位を記録(英16位)。作風としては1枚目と比較するとやや落ち着いたトーンで完成度を上げたイメージになっています。

さて、問題の3作目。アルバム"One to One"からイギリスは"All I Want"(英35位)、アメリカは"You Know I Love You, Don't You?"を先行シングルとしてカット。アメリカでは17位を記録しますが、トップ10を逃し、イギリスでは軒並み20位以下に沈んでしまいました。アルバムもイギリスでは10位とこれまでと比較すると物足りず、アメリカに至っては59位に。

やや低迷した要因は正直わかりません。私自身は1stは別格としても、3rdは2ndより好きでしたし、楽曲の質もアレンジも丁寧に作られていると思ったんですが…。この後のハワードは、続くアルバム"Cross That Line"からのシングル"Everlasting Love"がアメリカで12位と健闘するもアルバムは英64位・米65位。そしてこのアルバムが最後のチャートインとなります。日本ではまだまだ根強い人気を持ち、日本盤が発売され続けているだけに惜しい存在です。上記の"All I Want"は彼流ポップの完成形だと思いますが。

不朽の名曲"The Riddle"を生んだニック・カーショウ

前の二人と比べるとアメリカではブレイクしなかったのがニック(ランクインしたのはわずか2曲)。彼はフュージョンの影響を受け、数多くのバンドを経験した後にソロでレコード契約を結びます。日本では早い時期に「ミュージック・ライフ誌」のライターだった今泉恵子さん(現・今泉圭以子)がイチオシしていました。ルックス的にはポールのような甘いルックス(大和田伸也さん似ですが)、ハワードのような文学青年ぽいルックスとも違い、かなり好みが分かれそうな感じでした。眉毛も繋がってましたしね。またエルトン・ジョンが彼を高く評価していたことも思い出します(後にエルトンのデュエット・アルバムに参加)。

アメリカでのヒットに恵まれせんでしたが、イギリスでは大人気で、1st "Human Racing"から英5位大ヒット。代表曲となる"Wouldn't It Be Good"(英4位)、"I Won't Let The Sun Go Down on Me"(英2位)を生み、続くセカンド(英8位)は日本でもいまだに人気の高い"The Riddle"(英3位。アルフィーの高見沢俊彦さんが小泉今日子さんへの提供曲"木枯らしに抱かれて"でパクる)、私も大好きな"Wide Boy"(英9位)、"Don Quixote"(英10位)と3曲をトップ10に送り込みます。

彼の持ち味は何と言っても独特なメロディと変態的とも言えるギタープレイ。その個性が上手く活かせた初期2作品といえます。

そんなニックも3枚目の"Radio Musicola"でつまづきます。先行シングルは彼らしい音楽性に溢れた"When a Heart Beats"でしたが、これが27位止まりに。当時のニック本人の談によると、アルバムをレコード会社からせっつかれて急遽出したシングルだそうで、本人としてはあまり納得していなかったそう。実際このシングルが85年の秋に発表されたのですが、アルバムが出たのはなんと翌年の秋。この辺りのちぐはぐさもあってシングル"Nobody Knows"、"Radio Musicola"も40位台で低迷。アルバムは結局英47位。

上記の"When a Heart Beats"は好きな曲なんですが、ドラムサウンドが当時主流のゲートエコーを使ったものになっており、ニックに合っているかというと微妙で、やはりこの時期は過渡期でじっくり本人としては作り込みできなかったような感じも。

ニックの場合は、レコード会社との関係の調整が上手くつかなかったためにプロモーションなどが不十分に終わったことが推測されます。続く"The Works"(余談ですが、クィーンにせよピンク・フロイドにせよ"work"タイトルのつくときはキャリアの転機になる)は3年後までリリースされないことに。もっとも80年代後半以降は毎年アルバムを出すということはなくなったのではありますが。

ニックはこの後、チェズニー・ホークスに提供した"The One And Only"が英1位・米10位を記録し、ソングライティングの才能が枯渇していないことを証明しますが、自身の活動は嫌気がさしたのか1999年まで停止状態でした。その後はヒットからは遠ざかるものの、堅実な作品を生み続けています。

三人とも80年代派にとっては印象深いアーティストなのに下手すれば一発屋扱いされかねない状況なのは残念。また三人とも現在も良い活動を続けていますので、機会があればぜひ聞いてみてください。

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