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1984.11 バンド・エイドをめぐる思い出と小ネタ

1984年秋

私が洋楽に本格的にハマり出したのが84年。初めてのLPがワム!の「メイク・イット・ビッグ」でした。その頃はデュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、スパンダー・バレエといったところがバリバリの第二次ブリティッシュ・インベイジョンの時期で、私もブリティッシュ系を聴きあさっていた頃だったので、イギリスのスターたちが無償でエチオピア飢餓救済のためのチャリティシングルを出すというニュースが入り、その発売を非常に楽しみにしておりました。
で、国内盤は出ず、直輸入盤に湯川れい子さんの解説ライナーを封入し、ジャケットにシールを貼っただけのものが出ることに。
さて、発売当日。すぐに町のレコード屋に行ったんですが、「既に売り切れた」と。予約の時点でほぼ仕入れ分を売り尽くしたそうで、「やばい、これは手に入らないかもしれない」と絶望的な気分に。
結局手には入ったんですが、どこで買ったのかは覚えていなかったものの、おそらく初回輸入分ではなく追加輸入分で手に入れたのではないかと思います。それくらい日本でも売れまくってたイメージがありましたが、調べてみると当時のオリコンチャートで20位。翌年の"We are the world"は確か1位(ちなみにそちらはCBSソニーがきちんと国内盤として発売していた)だったんで、やはり輸入盤だし、レコード会社にも売れても利益は入らないしであまり数量は出せなかったんでしょうか。

とにかく豪華なメンツ

私がバンド・エイドに惹かれたのはなんといってもその豪華な参加メンバー。以下、ヴォーカル順にその当時の彼らの状況も記載してみます。

ポール・ヤング
オープニングを飾るのは新鋭の本格派ヴォーカリストとして参加したポール・ヤング。ホール&オーツの"Everytime You Go Away"の世界的ヒットは翌年で、当時はまだ1stアルバムを前年に出したばかりながら、アルバム"No Parlez"は英1位、シングル3曲は全てトップ5入り。ただ日本でもほぼ無名だったのではないかと。
ボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)
続いて、既に全米でも成功したカルチャー・クラブのボーイ・ジョージ。前年の2ndアルバム"Clolour by Numbers"は英1位・米2位、シングルは"Do You Really Want to Hurt Me"から"Miss Me Blind”までのシングル6枚はいずれも英もしくは米でトップ10入り。紛れもなく当時のトップスターではあったのですが、この84年9月に出たシングル"The War Song"が賛否両論でアメリカでは17位に終わり、アルバム"Waking up with the House on Fire"も26位に終わるなど、実はやや暗雲が垂れ込めた時期でもありました。
ジョージ・マイケル(ワム!)
イントロ部分が終わり、登場するのはワム!のジョージ・マイケル。前年のアルバム"Fantastic"はイギリスで大ヒット、アメリカでもこの年、"Wake me up before You Go-Go"、さらに"Careless Whisper"が英・米ともに1位を記録。この時期にはあの"Last Christmas"を発表、バンド・エイドのせいで2位止まりだったもの、クリスマス・スタンダードとして毎年のようにクリスマス時期にチャートイン、2020年になってついに英1位に。翌21年も2位、22・23年も1位を記録。ちなみに日本でも当時オリコンで12位。
サイモン・ル・ボン(デュラン・デュラン)
つい先日、イギリスでMBE勲章を授与されたサイモンが登場。この頃のデュラン・デュランも絶好調。83年作"Seven and the Ragged Tiger"からのシングルカットが続き、84年夏についに"The Reflex”が英・米ともに1位に。バンド・エイドとほぼ同時期に初のライヴ・アルバム"Arena"を発表、そこからのスタジオ録音曲"The Wild Boys"が英・米ともに2位まで上がるヒット。
スティング(ザ・ポリス)
サイモンとデュエットしたのがスティング。前年、アルバム"Synchronicity"で天下を取り、シングル"Every Breath You Take"は全米年間チャートで1位を取ったものの、ポリス自体はバンドの内紛中。85年にはスティングがソロに移行、86年に再度バンドを始動させようとするも、スチュワート・コープランドがケガをし、そのまま空中分解へ。
トニー・ハドリー(スパンダー・バレエ)
サイモンと代わり、スティングとのデュエットを取ったのはデュランと並ぶ人気バンド、スパンダー・バレエのトニー・ハドリー。83年のシングル"True"が初の全英1位、アメリカでも4位まで上がる大ヒットに。84年は続くアルバム"Parade"や続くシングルもイギリスではヒットしたが、アメリカでは不発に。以後はイギリス、イタリアで人気を継続。
ボノ(U2)
スティング、トニーのデュエットに入ったのがU2のボノ。既にこの頃のU2はイギリスでもカリスマ的な人気を集めており、アメリカでも83年の"War"、ライヴ盤"Under a Blood Red Sky"、84年の"The Unforgettable Fire"と注目され始めた頃。この頃はシングル"Pride"がイギリスで初のトップ3入り、アメリカでも初のトップ40シングルに。そして87年についに世界制覇を成し遂げることに。
ポール・ウェラー(スタイル・カウンシル)
4〜5人のコーラス部分に参加のため、歌声があまり目立たないのが残念なポール・ウェラー。
人気絶頂のジャムを解散させ、スタイル・カウンシルを前年に始動させたばかりで、84年春に今も名盤の誉れの高い1stアルバム"Cafe Bleu"が英2位、そこからのシングル"My Ever Chaging Moods"、"You're The Best Thing"もともに英5位、さらにイギリスの炭鉱労働者を支援するチャリティシングル"Soul Deep"(The Council Collective名義)とこの年は活発な活動を繰り広げた。
グレン・グレゴリー(ヘヴン17)
ポール・ウェラーとともにコーラス隊に参加したのがヘヴン17のグレン・グレゴリー。よって彼も歌声が目立たなくなっているのが残念。
ヒューマン・リーグから分派し、イギリスでは順調に活動を続け、課外活動であるブリティッシュ・エレクトリック・ファウンデーション(B.E.F)ではあのティナ・ターナーの復活劇にも関わるなど当時のシーンの重要人物でもあった彼ら。83年にシングル"Temptation"が初のトップ10入り(2位)、84年のこの時期は9月に3rdアルバム"How Men Are"を出したばかり。
マリリン
意外にも彼(彼女)も参加してたのね。ボーイ・ジョージの恋人との触れ込みで83年にデビューし、デビューシングルが見事に英4位となり、続く二枚のシングルもトップ40に送り込むものの、ヴォーカル参加メンバーの中ではポール・ヤングと同じくらいキャリアが浅く、実績もやや物足りないので謎の人選ではあるが、翌85年の1stアルバム"Despite Straight Lines"は時期を逸したせいでノンヒットながらなかなかの秀作で、彼自身もソングライティングに参加するなど、実は結構実力派だったかもしれない。残念ながら85年でほぼ歌手としての活動は停止。

ヴォーカルパートの謎

前述の通り、コーラス含むソロパートの最後はグレン・グレゴリーとマリリンという2人だったわけですが、なぜこの2人が入ったのか結構謎でして。というのもバンド・エイドには他にもわざわざアメリカからクール&ザ・ギャング(ボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツと同じレコード会社だったためらしい)や当時シャラマーだったジョディ・ワトリーもいたわけで、他にもイギリスの国民的ベテラン人気バンド、ステイタス・クォー(実は掛け合いの"Here's to You"のところを録音していたが、ハイトーンが出なくてボツになった。前夜にパーティーで飲み過ぎたらしい)やルックス抜群のバナナラマの3人もいました。(ジャケ写にいるビッグ・カントリーのメンバーは曲のレコーディングには参加しなかった模様)。またドラムスで参加していたフィル・コリンズ、ソングライティング&プロデュースに関わっていたミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)にも歌わせれば良かったのに。あ、ボブ・ゲルドフは歌わなくていいです。

バンド・エイド関連の小ネタ

  • 当初、カバー曲をやるつもりだったが、ロイヤリティ分が減るのでオリジナル曲を作ることに。ミッジがベース部分を作ると、ボブが「ウルトラヴォックスみたいだぞ」と言ったので、ミッジが「お前もパクればもっと売れるよ」と言い返した。

  • 歌詞はブームラウン・ラッツ用にボブが準備していた"It's My World"という曲から流用している。皮肉なことにブームタウン・ラッツはこの後、ライヴ・エイドを最後に解散。

  • 割と最近知ったことですが、ミッジとともにプロデュースにあたったトレヴァー・ホーン(当時はイエスやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドで大当たり中)はイントロ部分にティアーズ・フォー・フィアーズの"The Hurting"のスピードを落としてサンプリングしたらしい。

  • 前述のマリリンのヴォーカルパート参加について。実はマリリンは録音に招待されていなかったのに、参加を要求してきたらしい。後にボブとミッジは「もっといい知名度のあるスターを参加させれば良かった」と嘆いていた。

  • 84年にトラフィックの"Hole in My Shoe”のカバーを大ヒットさせたコメディアンのニールはミッジに追い出されたらしい。ちなみにドキュメンタリーにはニールの姿がチラチラ登場する。

  • トンプソン・ツインズも呼ばれていたが、当時海外にいて参加できず。代わりに彼らのシングル"Lay Your Hands on Me"からの収益の一部を寄付に回した。

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