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ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を読む①‪─序論

リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を読書メモを連載していきたい。今回は序論部分。

ちなみに本書を初めて知ったのは、NHKの『100分de名著』ではなく、哲学系Youtuberの「帰ってきたロシュフコー」さんの動画である。クオリティが高く、すっと入ってくるので是非見てほしい。というか、「帰ってきたロシュフコー」さんもっとバズっていいのでは・・・

序論は9ページとかなり短いが、本書の主題やローティの文章の心地よさが存分に展開されている。

本書の主題とは何か。それはローティが推奨するリベラル・アイロニストという生き方とその帰結について解説することだ。

公共的なものと私的なものとを統一する理論への要求を棄て去り、自己創造の要求と人間の連帯の要求とを、互いに同等ではあるが永遠に共約不可能なものとみなすことに満足すれば、いったいどういうことになるのかを明らかにすることが、本書の試みである。

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

この引用を読んだだけでは、何のことかさっぱりわからない。とはいえ、①公的なもの(人間の連帯)、と②私的なもの(自己創造)が対比されているのは何となくわかるだろう。まずは、この2つの対比から解説しよう。

ローティは、宗教や哲学を含む思想の領域において、「①公的なもの」と「②私的なもの」をいかにして統合するかが長年の課題であったという。「①公的なもの」とは、人々が連帯して共同体を形作るということである。それに対して「②私的なもの」とは、いわゆる個性や個人の信条に基づいて行動することのようである。

謂わば、アメリカ的な個人主義(これは日本においても特に若年層が内面化している)と、ヨーロッパ的あるいは日本的な共同体主義の間の断絶をどのように橋渡しするか、というのが思想界の大命題であった、ということだ。

少し話がずれるが、昨今の日系大企業(JTCというやつだ)に勤める若手は冷飯を食わされることが多いのではないだろうか。向上心を持ち自分のスキルアップに励むと、「どうせあいつは転職する」と会社内で冷遇される。個人的な能力アップを目指す「個人主義」と、旧来的な日本的経営の「共同体主義」の対立構造のように思われる。

とにかく、この「①公的なもの」vs「②私的なもの」という構図は根深い。②寄りの哲学者としてはハイデガーやフーコーが挙げられるが、彼らは社会を個人の内面と対立する敵のようなものとみなしている。一方、①寄りの哲学者としてはデューイやハバーマスが挙げられるが、彼らは個人主義の追求を非合理主義や審美主義と見做しがち。まさに水と油である。

この対立構造を解消するのがリベラル・アイロニストだ。じゃあ、リベラル・アイロニストが①と②を統合するのかというと、どうやら相違わけではないらしい。

自律を語る著述家[筆者注:私的なものの提唱者]と正義を語る著述家[筆者注:公的なものの提唱者]との関係は二種類の道具のあいだにある関係‪──つまりペンキ塗り用の刷毛と鉄梃のように、合成する必要がほとんどない関係‪──だと、みなすことができるようになる。

リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

つまり、大工さんがトンカチやカンナなどの道具を使い分けるように、「公的なもの」と「私的なもの」をそれぞれ全く別の道具として使い分ける人たちがリベラル・アイロニストのようだ。

なぜわざわざ「リベラル・アイロニスト」という名前をつけたのか?それは、リベラルであることとアイロニストであることが、大工さんのように道具を使いこなすことにとって重要であるためであるようだ。

「リベラル」であるとは「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のこと」だと考えること。「アイロニスト」であるとは「自分の信念や欲求は偶然なものに過ぎない」とみなすこと。

つまり、共同体主義と個人主義いう二つの考え方の間を器用に行き来するためには、残酷さを何よりも嫌い、個人としての信念や欲求の偶然性に自覚的であることが必要とのことである。この行間は今後の展開で明らかになってくるだろう。

そして、そのようなリベラル・アイロニストが社会に増えることによって達成される(?)リベラル・ユートピアについてもローティは提唱している。リベラル・ユートピアという社会は、「他者に対する想像力(特に他者に苦しみについての想像力)」によって機能するというのがローティの主張のようだ。この点についても今後明らかになるだろう。

ちなみに、ローティは「他者にたいする想像力」を助けるものとして小説を大いに評価しているようだ。序論で挙げられている小説家の名前を書きに列挙する。『偶然性・アイロニー・連帯』の読解に欠かせない必読リストかもしれない:

  • これまで注意が向けられなかった苦しみについて教えてくれる小説家

    • ディケンズ

    • オリーブ・シュライナー

    • リチャード・ライト

  • 人類のなしうる残酷さについて教えてくれる小説家

    • ショデルロ・ド・ラクロ

    • ヘンリー・ジェイムズ

    • ナブコス


以下、考察

  • 個人vs社会(共同体)を統合するという図式は、「セカイ系」に通ずるものではないか。セカイ系とは、世界の運命が主人公とヒロインに託されているような物語構造のこと。東浩紀が論じるように、セカイ系には社会についての描写がほとんどなく、主人公・ヒロインの危機と世界の危機が直結している。主人公とヒロイン間の「個人的な事情」が「社会(共同体)の事情」と直結しているストーリーの図式であるように思われる。

  • 新書大賞2025を受賞した『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、「半身」で働くことが推奨される。読書(という個人的活動)はノイズが多く、労働(という社会的活動)を乱すものになってしまう。しかし、このノイズが耐えられないほど労働に「全身全霊」で取り組む必要はないのではないか、という疑問を著者は提唱している。(読書は本当に個人的活動かという疑問はあるが)これも「公的なもの」と「私的なもの」の調停を試みているように思える。

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