安楽死反対派の「安楽死を強要」問題について
安楽死を反対する人たちはこう言います。「安楽死を悪用する事件が必ず起こる」
つまり、安楽死が合法化されてしまうと、それを悪用して「安楽死しろ」と死にたくないのに死に追いやられるケースが増えるというのです。安楽死の強要、強迫される事件が社会問題になると。
私は疑問に思います。
包丁を使った殺人事件は毎年必ず起こっています。しかし、この世から包丁を根絶しようという動きがないのはなぜでしょうか?
それは悪いのは包丁ではなく、包丁を悪用した人間だということをみんなわかっているからです。包丁に罪はありません。包丁はむしろ被害者です。包丁はあなたの生活を豊かにするもの、幸せのためにあるものです。だから包丁を使った殺人事件が起こってもみんな包丁を責めないのです。
同じことは「インターネット」「電車」「車」「二階建て以上の建物」「バット」「注射」などにも言えます。みんな人を幸せにするための、生活を豊かにするための「手段」です。しかし、包丁と同じようにこれらを悪用して殺人の「手段」として使用する人間もいるのです。
そんなとき、私たちは「手段」を責めるのではなく「悪用する人」を徹底的に責めなくてはいけません。そしてそういう人間を「どうすれば」生み出さずに済むのか、その方法を根本から真剣に考えなくてはいけません。
「じゃあそのままほっとくのか!?」
「廃止しろとは言っていない、規制しろと言ってるんだ!」
包丁の場合、銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)等を主とする法律によってしっかりと規制されています。しかし罰則を設けていても「包丁を使って殺人をしよう」という意思のある人間は実行するのです。規制があっても「悪用する人」が変わらなければ意味がないのです。
もし、包丁をこの世から根絶したとしても「悪用する人」は殺人のために「ガラス」を使うでしょう。「ガラス」を根絶しても「木の棒」を使うでしょう。
どうでしょうか?これが識者のいう「規制」です。永遠に誰かが命を絶つシステムです。もうお分かりかとおもいますが、「悪用する人」をどうにかしない限り、なにも解決などしないのです。「他人を傷つけてはいけない」という思考、教育、道徳、その見直しこそが本気で取り組むべき内容なのではないでしょうか?
識者は楽なことをしているだけです。体裁、というやつです。安易な対策は命を絶った、命を奪われた方への冒涜にさえおもえます。
安楽死は人を幸せにするための法律です。私たちを幸せにする「安楽死」という「手段」を悪用する人間は必ず出てきます。「インターネット」「電車」「車」「二階建て以上の建物」「バット」「注射」を悪用する人間がいるように。
今日も包丁のおかげで笑顔に食事ができています。しかし、包丁を悪用した人間により誰かが不幸になっています。
見直さなければいけないのは「包丁」ですか?「人」ですか?
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