むなしさ。
妹が自殺した後、
ふと夜になると襲ってくる感情。
発狂したくなるような感覚。
虚しさ、空しさ、空虚感
言葉にするとそんな感じ。
とにかく、むなしくて、むなしくて、むなしくて、むなしくて、むなしくて、、しょうがない。
何が虚しいのかもよくわからない。
いったいなんでこんな感情が湧いてくるのかも、よくわからない。
死にたいという気持ちとも違った。
この感情の正体がわからなくて、
どうしたらいいのかわからなくて、
ネットでたくさん調べたりもした。
でも、納得のできる文章には出会えず。
この感情をどこにぶつけていいのか、どうやって捨てたらいいのかわからずに、
夜になると、ただただこの感覚に気が狂いそうだった。
むなしい。
夜寝て、また朝がくること。
体を起こして、朝ごはん食べて、大学へ向かうこと。
大学へ行って、講義をうけて、友だちと話すこと。
そして、また1日が終わり帰ってきて、家族と話して、夜ご飯たべて、風呂入って寝る。
今まで当たり前のように自然とやっていたことが全てむなしい。
究極を言えば、息していることさえも。
自分が存在していることがむなしかった。
今寝たら、またむなしい明日がやってくる。
なんで生きているんだろう。
生きてるってなんなんだろう。
妹は自殺したのに。
この世界を生きることってなんの意味があるんだろう。
そんな漠然とした感覚が襲ってくる。
答えなんてどこにもない、
誰も知るわけがない、
調べても腑に落ちる答えは見つからない。
それまでの私にはいつも目標があった。
それに向かって努力することが好きだった。
その目標が達成できなくても、挫折しても、また新たな目標を立てて、そこに向かって生きてきた。
そういう自分が好きだった。
その時の私の目標は、
「学校の先生になりたい」
その目標のために教育学部のある大学へ入っていた。
はじめは1番前の前列で講義をきいていた私は、だんだん後ろの席へ。
それでも、その時の私は妹を救えなかった分、私は教員になって、他の子どもたちを救えるようになりたい。
もう子どもが自殺するような世界を終わりにしたい。世界を変えたい。
そんなことも思っていた。
でも、このふと襲ってくるむなしさには勝てなった。
それをすることに何の意味があるのか?
どんなことをしても、妹は帰ってこない。
どんなに他の子どもを救えたとしても、世の中が、変わったとしても、妹が自殺したことは変わらないし、妹には二度と会えない。
もとの生活に戻ることは二度とない。
この、どうもがいても変えることのできない現実にむなしさがこびりついて、どうすることもできなかった。
死んだように生きている。
そうするしかなかった。
でも、
そんな自分を変えてくれる存在と出会った。
それは、
自然。
大学でキャンプ実習というイベントがあった。
千葉の山の奥のキャンプ場。
ただただ森や林があるだけで、何にもない。
特になんの期待もしてなかった。
たまたま、一人でトイレかなんかに行ったとき、ふと森に生えている木々たちに囲まれてる自分に気づいた。
その場にしばらく立たづんだ。
とっても澄んでキレイな空気が私の体の中にスーッと入ってくるのを感じた。
その時に、干柿みたいにしぼんでカラカラだった私の心が、まるで、もとのみずみずしい柿に戻っていくような、そんな感覚を感じた。
息をすることって、なんて心地がいいんだろう。
生命ってなんて美しいんだろう。
そんな感覚がふと私の中に蘇ったようだった。
めちゃくちゃビックリした。
初めて感じた感覚。
生き生きと存在している木々たちを見て、
まるで、自分もその一部かのような感覚だった。
自然のもつ、そのパワフルで透き通った雰囲気に私は感動した。
自然が私を癒やしてくれる、
そして、生きる力をくれる。
そんな気がした。
そして、またキャンプをしていると、普段接している友だちとの関わりの変化にも気づいた。
いつも大学で会っているときよりも、私も含め、みんな心が開いている感覚。いつもよりみんな自然体だった。
自然がそうさせているように私は感じた。
それからの大学時代の私はとりつかれたようにキャンプリーダーに取り組んでいた。
自然が人に与えてくれる力にものすごい可能性を感じていた。
そして、そのキャンプで出会う子どもたちの純粋なエネルギー、一緒に熱い思いをもってキャンプに挑む仲間たち、キャンプを通して本気で世界を変えようとしている代表との出逢いで私は、自分の中の何かを満たそうとしていた。
「全てのことには必ず意味や理由がある」
その代表の言葉とともに、私はむなしかった全ての出来事に何か意味があると、なんとなく思えるようになった。
私が生きてること自体に何かの意味がある。
だから、私は生きている。
そんな風に思えるようになってきた。
でも、完全にむなしさが消えることはなかった。
13年経った今でも、私はあの時自然がくれた感覚を覚えている。むしろ、この感覚はどんどん確信めいていた。
私は昨年、インドでアースバックハウスをつくるボランティアに参加した。
そこにはキレイな草花、田園、川、山脈が広がり、まるで楽園。
でも、生活に必要な電気、ガス、水道、便利な道具は揃っておらず、快適とはいえない中で仲間たちと1ヶ月間キャンプ生活をした。
朝夕極寒の中、みんなで火を起こして暖をとり、温かいお湯を1杯飲むのに一苦労。野犬もやってくる。
だけど、そんな環境の中、私たちはずっと笑っていた。不便だからこそ、みんなで協力し、分かち合い、ただただ目の前のこと、人に集中していた。
毎日、ご飯を作って食べ、アースバックハウスを作って、夜は焚き火をしながら語り合い、寝る。
そんなとってもシンプルな生活。
朝目が覚めると太陽がのぼり、仕事が終わると太陽が沈んでいく。
限りある、温かい火、そして潤いを与え、流してくれる水があることに、ただただありがたさを感じた。
私が本当に求めていた豊かさ。
それを私はやっと体感した気がした。
自然と共に生きたい。
そして、食べられること、安心して寝られること、仲間がいること、そんなシンプルな生活を丁寧にただただ感謝しながら、生きていきたい。
そんな感覚が強まっている。
以前までの私は、なぜ私は生きているのか、そんなことをずっと考えてむなしくなっていた。
でも、生きるって、本当はそれ自体が、とてつもない奇跡みたいな、かけがえのない、美しいものだったんだと、そう思えるようになった。
生きていること自体が素晴らしいことだったんだと、そう思えるようになった。
この感覚を私がもっと取り戻して、そう生きていくこと、それがどんどん周りの人に伝わっていったら、世界から自殺する人もいなくなるのではないかと、今では感じている。
むなしさがくれた大切な大切な贈り物。
私が本当に求めていた豊かさ、そして生きる喜びと感謝に気づくための道標となってくれた。
あの、むなしさ自体が私にとって、本当の大きな大きな愛だったのかもしれない。