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『シチズン・スリーパー』一つの選択について
※この先にはゲーム『シチズン・スリーパー』のネタバレが含まれます。未プレイの方、既プレイでも全選択肢を回収していない方はご注意ください。
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具体的には、「緑道のサイファー」を挿入して後、「種」が育った後のエピソードです。
体を捨てて楽になるか、苦しみながらとどまるか
「庭師」と名乗る存在との交感の中、突如その選択肢は現れた。
体から解放されて自由になるか。
それとも、面倒で疲れていても、痛みとぬくもりが入り混じった世界に戻っていくのか。
「この瞬間は決してやり直せない」という言葉を目にしたとき、体の内側が冷たくなる
自分の希死念慮について
その選択肢を目にしたとき、
「こんなにいきなりあっさり終わりたくない…」「もっとこの先が見たい」と直感的に思ったのは、意外なことだった。
私は常々、心や体がつらくなった時に「死にたい」と思ってしまうからだ。
日常そう思えるのは、そう簡単には死ねないから。
「死にたい」というのは、簡単には生きることをやめられない現状への嘆きでしかない。
スリーパーのように、あっけなくこの生を捨てられる選択肢が現れたとき、私は糸を断ち切ることができるだろうか。
そう自問すると、「まだやりたいことがある」という答えが自分の中から返ってきた。
自分はまだやりたいことがあったらしい。
いつ死んでもいいやと思って生きているつもりだったけど、「積極的に死にたくはない」、それくらいには生きたかったらしい。
肉体のない喜びと少しの寂寥感
結局私は、一度糸を断ち切ってネットワークに加わった。
「自分」が溶けて、みんなと一緒になっていく世界。
そこには喜びがあった。
迷うこともない、苦しむこともない、安定した白い喜びが。
喜びと言っても、それは体や心から湧き上がってくる「感情」ではなかった。
もっと動かない、「自分を煩わせるものがない」といった類の、安らかな喜びに近い何かだ。
それを私は、メリーバッドエンドだと思った。
目の前に広がる大きな喜びを感じながらも、胸がすかすかするような寂寥感を覚えた。
多分私は、自分の生を煩わしいと思っていながらも、煩わしい生を生きていたいのだろう。
といっても、「生きていたい」という言葉に見受けられるような、強い意志は私の中に感じられない。
きっとそれは、ただ単に変化を恐れる気持ち、今あるものを失いたくないという気持ちに近いのかもしれない。
「生きていたい」というよりかは、「今すぐには死にたくはない」、といった方が正確だろう。
肉体の重みと生きていくことのやるせなさ
エンディングを見送って、次に私はもう一つの選択肢を選んだ。
スリーパーが、体に戻っていく。
スタッフロールの後、少しの空白をおいて、リコとの会話が始まる。
体の重みと、生きていくことのやるせなさ。
体温と湿度を伴った感情。
そのすべてに、何とも言えない安堵を覚えた。
物語が終わらないことの安心感。
反射的にもう一つの選択肢と比較して、
あの寂寥感は、物語を読み切ったときのさみしさに似ていたかもしれないと気づいた。
その先がないという不安、続きが断ち切られる痛み。
あるはずのものを失う喪失感、あるべきものを求める未練。
そういうものがないことに安心していた。
ゲームの中の生
二つの選択を見届けて、私は電源を落とした。
選択肢の先を見届けたい、そんな理由で行動したが、
ゲームの仕様を利用して両方の選択肢を見たことに罪悪感を感じていた。
スリーパーの生をもてあそんだような気がしたのだ。
もちろんこれはゲームだから、私はここにたどり着くまでもずっと誰かの生を左右してきた。
しかし今回は、「この瞬間は決してやり直せない」という言葉が強く頭に残っている。
現実の自分の行動は決してやり直せないくせに、ゲームではやすやすとやり直しがきく。
あってはならない力を使って人の生を勝手に決めている。
今更そんな気持ち悪さを感じた。
現実世界でも、私は自分が他人に影響を及ぼすこと、自分が他人に影響を及ぼされることをひどく恐れているように見える。
他人に干渉されたくないと思うから、自分が嫌なことを他人にしたくもないのだ。
それは、心地よく整えた自分の部屋に誰かが入ってくる居心地の悪さに似ている。
自分以外の人のこと、挙句の果ては自分のことすらよくわからない。
自分が傷つくこと、自分が人を傷つけることがひどく恐ろしい。
生きていれば、傷つき傷つけることが絶対に起こる。
だから何も起こさずに死んでしまいたいのだ。
しかしすでに生きてしまっているから、死ぬことですら周囲の人に影響を及ぼしてしまう。だから本当は跡形もなく消えたい。
7か月たって変わったこと
※上の文章を2024/5/14に書いて公開していなかったため、改めて読んだ今の自分の所感を書いてみようと思います。
生と死について、今はどちらの気持ちもフラットに持っていると思います。
死ぬとしたら「ちょっとさみしいな。でもいつかは死ぬもんだしな。じゃあね」って死ぬだろうし、死ななくていいなら何とか辛さをやりすごして生きるだろうくらいの気持ちです。
死にたいという気持ちを持つのは悪いことじゃないし、生きる上でしんどいことあったら全部避けていいと思えるようになったから、フラットに考えられるようになったと思います。
それに比べると、前は死にたいと思うことに罪悪感があったし、しんどいことをやらなきゃいけないと思っていたから、生きることの楽しい側面に目を向ける余裕がなかったんだなあと感じました。
また以前は自分が人の生を左右することに罪悪感を感じていましたが、今は自分で判断したことの責任を引き受けて行動する意識が強いように思います。
9月に『馬から学ぶリーダーシップ』というプログラムを受けて、リードする自分が迷うと馬も迷うということを実感したのが大きかったです。
そこで、「判断を下さないということは、責任を背負わないことでもあると思う」と声に出して言えた(それくらい納得感のある経験だった)ことを鮮明に覚えています。
文章を残しておくと、自分の変化がわかって面白いですね。