「鶴を下さい」ということを伝える方と話をして、そのあとその活動に感じたことを書いた記事を読んで思ったこと
今日、新宿の京王線西口近くで、「鶴を下さい」と伝える活動に出会った。
そこで、自分のことやその人のこと、この世界のこと、長いこと色々な話をした。
色々なことを考えた。
帰りの電車で、その活動に出会った人の感想を目にした。
『千人鶴の活動について』ミズカワイズム
http://blog.livedoor.jp/mizukawaakira/archives/29183275.html
この方の思ったことに対して、思ったことがあったので、書き出してみようと思う。
言葉は、言葉にすることで、言葉で表現できないことを取りこぼしている。
理路整然としようとすれば、何が主で何が末節なのかを判断することで、さらに取りこぼす。
あの人が、考えていたことを、率直に話したのは、考えたことを全て率直に伝えるためではなかっただろうか。
取りこぼしをできるだけ出してはならないと思うから、せめて思った言葉を全て伝えるのではないだろうか。
とりあえず、受け取るひとと送るひとに共通で使える手段が、言葉しかないから。
少なくとも私は、あの人が、「上手く説明できない」「理路整然とできない」やり方でこの話を伝えてくれたことで、「この話は、言葉で伝えることには限界がある話なんだ、まして理路整然と伝えようとしたら、多くのことを取りこぼす話なんだ」ということが伝わった。
そこには、理路整然と伝えることで、わかった気になってほしくない、という気持ちもあったのではないだろうか。
ということを思った。