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間違った方向性(1/2)
はじめに
以前、書いたマルチリンガルシリーズの前編・後編ともにスキを多くいただきました。今まで書いた記事の中でもトップクラスです。皆さんにある程度の評価を頂けたのではないかと思っております。本当にありがとうございます。マルチリンガルシリーズを書こうと思ったのは飯山先生の記事を読んだことが最終的な決め手でしたが、ドイツにいるときからその考えは芽生えていました。外国へ行って外国語を話すことはすごいことでもなんでもなく、当たり前のことです。外国に行って、その国の言葉を話して、向こうの人に褒められるのは、少し下に見られていると言えます。小さい子のおつかいと同じで、小さい子がおつかいを頼まれて、言われたものを買って帰って来れて、褒められているだけです。では、高校生におつかいを頼んで、褒められることはないですし、小さい頃のような褒められ方をすると少し嫌な気分になると思います。そんなことできて当然で、できないと思われていたのかと捉えることができます。
実は外国語を話して、外国人が褒めるのはまさにその感覚と同じです。褒められたことをさらなる励みにして努力をすることは非常に素晴らしいことですが、褒められたから「自分は完璧だ」と思うことは一生外国人と対等なレベルに立つことはありません。そこで、マルチリンガルシリーズのでは、言葉を学ぶことよりも中身のある話ができるようなネタを持つほうが重要だとも書きました。この文章だけ見れば、外国語を取得するのがばからしく思われるかもしれませんが、外国語は話せるに越したことはありませんし、話せるようになった方がいいのは確かです。外国語への憧れが行き過ぎて、他のことをなおざりにして覚えようとする人が多いのも事実で、そのことに対して疑問を呈する内容です。今回はそのマルチリンガルシリーズのおまけみたいな内容になっています。言葉を学ぶ上で覚える違和感ややらない方がいいことについて、2回に分けて書いていきます。
綺麗な日本語訳という誤り
学校の英語の授業で教科書を音読されられて、日本語訳をさせられた記憶があると思います。このときによく指摘されるのは、日本語訳がおかしいであったり、その単語の意味は正しいのかであったりといったことです。言葉を学ぶ上で、外国語を母国語に完全に落とし込むことはやらない方がいいことです。学校ではそれが正しいと教わってきてのだから、何を変なことを言っているのかと思われるかもしれません。最近の英語教育は変わっていると思いますが、僕が教わっていたころ(10年ほど前)は英語を日本語で捉えることがメインでした。
しかし、これが英語習得を妨げる大きな壁です。英語教育で重要なことを英語と日本語の違いを教えることであって、英語を日本語にすることではありません。英語を日本語にするのは翻訳家の仕事であって、日本語訳を学生レベルでどうこうできるような次元ではありません。もし、学生レベルで翻訳ができるのであれば、専門家としての翻訳家は不要です。例えばですが、I play footballを訳すときどのようになりますか?①「私はサッカーをする」になるはずで、②「私はする、サッカーを」と訳す人は少ないはずです。①は日本語として正しいですが、英語としては正しくないです。それに対して、②は英語として正しいですが、日本語としては違和感のあるものになります。翻訳家であれば①の訳をしなければなりませんが、普通に英語を学んでいる状態であれば②の捉え方で十分だと思います。綺麗な日本語にしようとすることで英語のニュアンスが死んでしまいます。翻訳家や通訳の方々をその英語のニュアンスを殺さないように日本語にしています。外国語と日本語の違いをしっかり把握して日本語にするのと、それを理解せずに日本語にするのでは意味が違います。見た目は同じ家だけど、片方は基礎や柱もしっかりしていて頑丈な家なのに対して、もう片方は、基礎は杜撰で、さらに柱も貧弱でいつ崩れてもおかしくない家と同じです。
単語を覚えるときに英単語=日本語として覚えることが多いと思います。先ほども触れたように英語と日本語は全く別の言語なので、単語の持つニュアンスも違います。例えば、watch、see、look atはどれも「見る」という意味ですが、それぞれの単語でニュアンスが異なると教わっているはずです。Watchは動くものを見るときに使い、観戦や観察といった「観る」のニュアンスになります。Seeは偶然、視界に入って見えたというニュアンスになり、自分の意思で見ようとしたわけではありません。Look atは意識して見るというニュアンスであるものを見るときにseeを使うかlook atを使うかでその人がそのものを見るときにどういう気持ちで見ているかがわかります。単語を覚えるときも日本語で覚えるのではなく、ニュアンスで覚えることが非常に重要です。ニュアンスで覚えると楽なのは前置詞と助動詞です。これらは日本語にするとたくさん意味がありすぎて、覚えるのが大変ですが、ニュアンスで覚えているとその文のイメージがしやすくなります。
本当の同じ意味?
同じ意味の文章を作れといった問題があります。例えば、①She gave me cakesと②She gave cakes for meは同じ意味になり、文法の言い換えの問題でよく出てきます。①と②は意味が同じとよく言われますが、厳密に言えば違います。どちらも「あの子が自分にケーキをくれた」という訳になりますが、①は渡されたものが会話の目玉で、②は自分にくれたことが目玉になっています。英語ではエンドフォーカスと言って、文末に来る単語に目玉になるようになっています。つまり、①と②の文章では注目すべき点が、違うのです。これを日本語訳にするとそのニュアンスが消えてしまいます。①は、「あの子がケーキくれるなんて意外」っていうニュアンスになり、②は「まさか自分があの子からケーキもらえるなんて思っていなかった」という意味になります。日本語で会話するときも同じ意味であっても、強調したい部分があると語順を変えて話すことがあると思います。それと全く同じです。
まずは日本語との違いをしっかり叩き込むことが重要です。受動態と能動態で同じ文章を作らされますが、本当に同じ意味であれば2つもある必要はありません。違いがあるから能動態と受動態が存在します。本当は受動態の文章の作り方よりもなぜ受動態が必要なのかについて教える方が重要だと思います。”by”と元の主語を付ければ能動態と意味が同じになるはずがありません。受動態にすることで主語を伏せたり、本来の主語を強調したりできるからです。重要なことはその文法が使われている理由であって、日本語訳ではありません。あえてその文法を使っているのには書いている人や話している人に意図があるからです。それを日本語訳にして均一化することはいいことではありません。
最後に
日本人が英語を話すことができないと言われて久しくて、文法や長文読解といったインプットに重点を置いた英語教育がその原因と言われています。最近はスピーキングにも重点を置いていますが、その教育の根底にある英語を綺麗な日本語にするという意識が、英語を話せなくしている原因ではないかと思います。英語=日本語にしようとする考え方は良くないものだと思います。「文法なんて覚えても役に立たない」と言う人は英語をまともに話した経験がないか、英語について真剣に考えたことのない人です。文法は日本語と英語の違いを明確に示す一番のものです。その文法が暗記項目になっていますが、本当は文法をしっかり学ぶほうが長文をいっぱいこなすよりも重要です。文法で英語と日本語の違いをしっかり意識せずに長文を読むと、綺麗な日本語にしようと思ってしまいます。中学や高校の僕もそうでした。英語は綺麗な日本語にすることが至上命題と思っていました。実際は英語を英語として捉えることの方が重要で、綺麗な日本語にすることは二の次、三の次です。英語のテストの点数を稼ぐには英語を日本語にしたり、難しい表現や単語を使ったりすることが必要になります。本来の言語の役割である相手との意思疎通からずれていっています。ゴルフから派生したドラコンは飛距離を競う競技ですが、ゴルフのような打数を競う目的からはずれています。テストや受験で求められる英語と本来の英語の役割の違いはゴルフとドラコンの違いに似ています。同じ英語ではあるけれども求められているものが違います。
次回は外国語を学ぶときの違和感について書いていきます。(実はまだ、そっちは書きあがっていませんが、、、)