見出し画像

意外と難しい議論と批判


はじめに

最近、大阪都構想の話題で大阪市内はいつも街宣車が通っています。大阪市の廃止を訴える維新の会を含む賛成派と、大阪市の廃止を阻止しようとする共産党を含む反対派が毎日大阪市内で演説をしています。大阪という大都市においては都市の理論で政治を行う維新の会は大きな支持を集めています。反対派はまともな議論をすることなく、大阪市がなくなればいいことはないと不安を煽ったり、都合のいいデータばかりで自らの意見を構築したりしています。自分の意見に近いものだけを集めて、自分の意見を構築するのは最悪な方法です。自分の意見を構築するときは、反対意見を入れて、それを批判することで自らの意見が優れているというようにするのが基本です。今回は大阪都構想に賛成、反対について書くのではなく、できるようで意外とできていない議論と批判の仕方について書いていこうと思います。ワイドショーや左派の行っている議論や批判は真似しないようにしましょう。


反対意見の表明が御法度

画像1

批判とは前述のように議題や意見について不十分な点を指摘する行為であって、論者を否定する行為ではありません。批判は議題を指摘するため、その議題について一定以上の知識が求められ、肯定する以上に難しい行為だと考えています。これを単純化すると批判すると賢く見え、さらに相手を打ち負かしているような感覚に陥り承認欲求を満たされた状態になっていると言えます。この考えだけが一人歩きし、何かにつけて批判したがる人が増えます。そうすることで、批判(中傷)コメント書いている自分は賢くて、認められた存在であると勘違いしてしまいます。このような行動に走ってしまう理由は2つあると考えています。それが教育とメディアです。
大半の学校(小学校から高校まで)では自由に議論する場があまり設けられていないように思います。少なくとも僕の行っていた小中高では、そのような時間は非常に少なかったです。学校では、自ら考えるのではなく、教師が生徒に教えることがメインになっていると考えます。例えば、学校の社会の時間に憲法を習い、9条に疑問を抱き、改正すべきだと思うと教師に言えば、「なんて危険な思想の持ち主だ」と言われたり、思われたりするでしょう。つまり、教師の考えと反対の意見を持っていると内申点に影響するという恐怖から生徒が反対意見を言うことをはばかります。独裁国家で行われる言論統制と同じことが起こっていると言えます。そのため、教師の考えに賛同する人はしっかりとした知識と教養を持っている生徒で賛同しない人はならず者で野蛮な人間であるとみなされてしまうリスクがあります。


議論をしたくてもなかなかできない

画像2

高校卒業前までに議論することについて教育されて、おらず議論や批判がどのようなものであるかがわからない状態で卒業してしまっています。そのため、批判がどのような行為かわからず、メディアで批判している人の姿を見て、これが批判と思い込んでしまいます。メディアは一種のショーなので、過激になればなるほど面白くなります。それを見て、これが批判をすることと思ってしまいます。お箸の持ち方を親に教えてもらわずに成長すれば、近くにいる人のお箸の持ち方を真似たり、手でそのまま食べたりするのと同じです。本来、教育現場で議論について教育すべきが、教育現場では半ば思想弾圧のようなことが行われ、反対意見を持たせないようにしていると言えます。
大学時代ゼミの先生の授業のアシスタントをしていたときに、「このテーマについて議論してください」と言っても、なかなか議論が始まりません。それは高校時代までの教育で正解のある答え以外言ってはいけないという価値観のせいで、各々が思っていることを言うことができませんでした。そんなときに「間違いも正解もないから自分の意見を自由に言ってみよう」と言うと学生たちは徐々に議論を始めるようになりました。その内容を聞いていて、僕よりもしっかりした意見を持っているなと思うこともあり、感心させられることが多かったです。自分の意見を持っているが、それを外に出すことを教育されていなかったことがひしひしと伝わりました。
ヨーロッパでは、小学校時代から議論することが教育プログラムに組み込まれていて、小さなころから自分の意見を持つということを勉強しています。自分がある議題について賛成意見を持とうが、反対意見を持とうが否定されることはなく、なぜ、そのように思うのかが重要視されます。その理由が倫理的でなければ、注意されます。僕もドイツにいたときに通っていた語学学校で自分の意見をドイツ語で述べることを非常に求められました。日本のよう単に習うだけではなく、それについてどう思うのかとよく聞かれました。これは授業だけでなく、友達とのコミュニケーションでも同じで、常に自分の意見が求められます。外国、特にヨーロッパでは自分の意見を持つことが重要ですし、大学生で自分の意見を持っていないと、何のために大学に通っているのかと思われることがあります。拙くても自分の意見を述べると述べないのでは相手の反応がまったく違います。自分がどのような意見を持とうがその意見を持つということは絶対に尊重されます。ある議題に対して反対意見を持っているから、こいつはおかしいと思われることは多くはありません。持っている意見については容赦なく批判されます。



しっかりとした議論やと批判の方法

画像3

議論はある議題について話し合います。議題は賛成反対の立場のわかりやすいものにするといいです。例えばですが、「喫煙者の権利を守るべきか」であったり、「在宅勤務を今後も継続すべきか」であったり、前述の憲法9条の改正であったりと賛成反対が分かれやすいものにするのがベストです。そして、賛成か反対かどちらかの立場を選択し、自分の意見を考えます。賛成か反対かも重要ですが、なぜ自分が賛成なのか、なぜ反対なのかについての理由をしっかりと考えなければなりません。これができないと最終的に批判する材料がなくなり、論者に対する人格否定に走ってしまいます。実は大学のレポートや卒業論文で重要視されるのは、なぜ自分がそう思うのかの部分であって、賛成反対の立場ではありません。高校までの教育ではそれが逆でどのような理由であれ、反対の立場を取ることが許されませんでした。例を使って見ていきましょう。
テーマを「喫煙者の権利を守るべきか」という議題にします。①そこで喫煙者の権利は守られるべきと賛成の立場に立ったとします。立場を表明した後に、なぜ、その立場に立つのかを説明する必要があります。②決められた場所でタバコを吸う分には問題はないうえに、非喫煙者にそこまで気を遣う必要がないからという理由で賛成の立場を取る理由だとします。これで自分の意見表明をすることができました。では、次からは批判について見ようと思います。

画像4

批判は議題や意見について不十分な点を指摘する行為です。批判したい相手の意見について、しっかりと理解することが重要です。議論は一種のコミュニケーションで言葉のドッジボールではありません。批判をするときに、その意見の不十分な点について指摘します。その意見の何が不十分であるかを指摘できないと噛み合わない議論になってしまいます。批判でベストな対応は、代案を出すことです。代案を出さない批判は机上の空論だと言ってのけられることがあります。何かに反対することは簡単で、どんな案でも絶対に穴はあります。それを突くことは簡単ですが、どうやってそれを解消するかも含めて、批判できると完璧です。ネットでよく騒いでいる左派はこれが全くできていません。単に怒鳴り散らしているだけです。導入すべきだという議題であれば、現状維持も一種の代案と言うことができます。次は賛成意見への批判をしていきます。
③決められた場所で喫煙しているとは言え、非喫煙者がいることも考えられるので一言掛けるぐらいの最低限の配慮は必要だという批判をします。同時に喫煙者が非喫煙者に対して多少の配慮はするべきであるという主張になります。良くない批判は、タバコの煙は有害で、喫煙者だけでなく周りにいる人にまで害が及ぶものであり、非喫煙者はその煙のせいで害を被ってしまうといったものです。賛成派の非喫煙者への配慮しすぎる必要はないという意見に対する反論のように見えますが、実は的を射ていません。②では、喫煙者は決められた場所でタバコを吸い、これ以上、喫煙者に肩身の狭い思いを強いるのかと主張しているのに対して、③ではタバコの害悪のことにしか触れていません。意見を述べるときに議題からずれるようなことはあまり言わない方がいいです。これはワイドショーなどの政権や行政に対する批判によく見られるよくない例です。議論が白熱すると誰しも気持ち的に高ぶり冷静さを欠いてしまい、本来の議題からそれることがあります。そうならないためにも日ごろからこのようなことに気を付けましょう。
基本的な流れは立場を表明し、その理由を述べる。その意見に対する反対意見を述べる。という流れの繰り返しです基本的に②→③の繰り返しです。



批判をするときの注意点

画像5

批判をするときにやってしまいがちなのが、論者への人格否定です。反安倍政権や反菅政権を標榜している左派によく見られるのですが、議論の仕方としては最悪です。テレビ番組で言えば、モーニン〇ショーやバイ〇ングがその最たる例です。今回のテーマに当てはめると、喫煙者の権利を守るべきでないという立場の人が、喫煙者は人間としてどうかしていると言ったり、タバコを吸うやつなんて気が狂っていると言ったりすることです。僕はタバコが大嫌いですが、タバコを吸っている友達や会社の人に対して人格を否定しようとは思いません。議論で重要なのは喫煙者の権利を守るかどうかであって、それを述べている論者を攻撃することではありません。サッカーで言えば、相手チームに勝ちたいがために、ゴールを決めるのではなく、相手選手にラフプレーをして、潰しに行くようなものです。これが反則行為であることは言うまでもありません。あくまでも議題や意見に対してだけです。論者は論者として尊重するのが議論の鉄則です。議論や批判は論者を否定するものではなく、論者を尊重しなければなりません。テレビやネットでは、反対意見を述べることは自分と異なる意見を述べた人の人格否定をすることが多いです。否定すべきは論者ではなく、意見です。これを間違えている人が多いです。知識人と呼ばれる人たちでも平気で安倍元首相の人格否定を行います。そのような内容のツイートをリツイートやいいねをすると罪に問われる可能性を大阪高裁が示しました。安倍政権の批判については今後のためにもちろんすべきですが、安倍元首相への人格否定をするのは批判ではなく中傷です。何かに対する批判も的を射ないような内容ではなく、しっかりと中身のあるものにしなければなりません。それは批判だけでなく、支持する場合にも同様のことが言えます。議論や批判をすることは非常に有意義でいっぱいすべきだと思っていますが、まともな議論や批判でないと横道に逸れたり、人格否定につながったりしてしまいます。議論や批判をするときは相手を尊重する心は忘れないでおきたいですね。

最後に

議論するときの姿勢をぜひとも参考にしていただきたい人を紹介して終わろうと思います。それは現在女優として活躍されている深川麻衣さんです。「こいつ、乃木坂好きやな」と思われたかもしれません。はい、その通りです。「これだから、アイドル好きはまもなやついないんだよ」と思われた方は、もう一度はじめから読み直してください。それは批判ではありませんよ。ディベートを経験されている上祐氏や橋下徹さんが出てくると思われた方も多いかと思いますが、深川さんです。深川さんの相手を絶対に否定しない性格から乃木坂46在籍時に「聖母」と呼ばれていました。乃木坂46ファンの間では今でもそのあだ名で呼ばれています。深川さんは相手を絶対に否定をしませんが、相手の言っていることをすべて肯定する人でもありません。相手を尊重しつつ、自分の考えを相手にしっかり伝える人で、メンバーやファンから愛される存在です。深川さんが相手の意見に賛同できなくとも、その意見を持っているメンバーを否定することなく、賛同できない意見に対してこうした方がいいのではないかと言う人であったと乃木坂46のメンバーが様々なメディアでよく口にしていました。相手を尊重しながら異議を唱えるその姿こそが本来の議論する人の姿ではないかと思いました。深川さんのように相手の意見を尊重しながら、相手の意見に対してはしっかりと批判できるようにする必要があるのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!