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騒いで解決はしない
はじめに
元総理秘書官がLGBTに対する差別発言をきっかけにLGBTの議論が話題になっています。同性婚を認めろであったり、個人の性自認を尊重しろであったりとLGBTを取り巻く左の方々は滅茶苦茶なことを言っています。僕個人としては、LGBTの人たちに対する権利を尊重する必要がもちろんあると思いますが、左の人たちが騒いでいるような議論には全く賛同できません。今回は彼らの発言がいかにおかしいかについて書いていきます。
女性の権利は何処へ?
少し前まで、女性にもっと自由をであったり、女性が活躍できる社会をであったりを左翼の人たちは叫んでおられました。ここに来て彼らは多様性を認めろとLGBTの人たちを引き合いに出すようになりました。左翼の教典であるはずの日本国憲法には両性の合意に基づき婚姻が成り立つと規定されていますが、憲法に反する同性婚を認めろと言う始末です。憲法を変えることは許されないはずなのに、憲法に違反するようなことを平気で言っています。自分たちの主張は法をも上回るとでも思っているのでしょうか?とにかく、ご都合主義にもほどがあります。
LGBT議論の中で性自認を尊重し、男性であっても女性と自称すれば、女子トイレや女風呂に入ることが合法化され、そこで女性が悲鳴を上げれば差別になると言われています。これは明らかに女性に対する重大な人権侵害です。ついこの間まで女性をぞんざいに扱えば、女性差別だと叫んでいた人たちが次は女性が声を上げれば、LGBT差別ですか?あなたたちが守りたいものは何なのですか?おそらくこの流れで行けば、次はLGBTの人たちが今の女性と同じような立場に立たされることになります。
彼らを信じて救われると思っている人たちは間違いなく裏切られます。都合が悪くなれば、切り捨てられます。ロケットの燃料タンクのように高いところから海へ落されます。トカゲの尻尾のような生易しいものではありません。彼らは女性の味方でもLGBTの味方でもありません。彼らはお金と世間体だけを気にする集団ですので、関係がなくなれば、平気で切り捨てます。
彼らは端から女性の権利やLGBTの権利など守ることに興味はなく、自分の利権だけを守ることにしか興味がありません。そんな芯のない人たちに付いて行っていい結果が待っているはずがありません。こういったことを女性やLGBTの人から言うと効果的で、彼らの本性を白日の下に晒してくれます。しかし、彼らは必死に抵抗するでしょうが、彼らが必死になればなるほど、真実味が増します。
左翼が騒げば騒ぐほど、本来守られるべき人が守られず、白い目で見られて苦しい思いをすることになってしまいます。無関心は差別を黙認することに繋がりますが、厄介者扱いさせるのは差別そのものであり、さらにそれを助長するような言動を繰り返すことは意図的としか言いようがありません。本当に救うべき人たちを陥れるような真似をするから真剣に取り組んでいる人やその当事者が割を食ってしまうのです。
LGBTの権利はどのようにして保護されるべきか?
同性婚や性自認を基に女子トイレや女風呂に入ることには反対です。同性婚は憲法で禁止されている事項であるため、法制度云々ではなく、憲法改正の議論をすべきだからです。憲法を触らずに、法律だけを変えることは法治国家としてあってはならない行為であり、それを認めてしまうことは人治国家に成り下がることを意味します。民主主義を維持するためにも法治国家としての原理原則は守るべきです。
性自認に基づく女子トイレや女風呂に入ることについては言う必要がありません。女性が肩身の狭い思いをし、それを悪用する人が出てくるからです。女性が活躍できる社会が、女性が委縮する社会になってしまいます。女性の活躍推進の理念にも反してしまうことになります。性自認に基づく行動を社会的に認めてしまうと、一番迷惑するのは普通の女性です。女性の権利を制限してまでそういったことを認めるべきではありませんし、LGBTの権利が無制限に認められるはずがありません。LGBTの権利を向上させることには賛成ですが、女性の権利を一方的な権利制限を加えるべきではありません。公共の福祉に反しない程度でLGBTの権利を尊重すべきであって、一方的であってはありません。互いに尊重し合うことが多様性の尊重です。彼らはワンピースの天竜人なのでしょうか?そんなことないぇ~
性同一性障害を抱えている人で性転換をした方については女性ですので、女子トイレや女風呂に入ることに反対するつもりは毛頭ありません。客観的な事実に基づき、性別の壁を越え、生物学的に女性として認められているからです。生物学的な壁に対して、主観的理由だけで越えることには無理があります。年齢制限のあるものに対して、自称した年齢で押し通すに等しいです。客観的な事実が必要な事項に対しては客観的な理由が必要です。
自分が苦しい思いをしているから他の人も同じ思いをすべきだと考えるのではなく、社会の場は相手がいます。自分が自分がではなく、相手も尊重する必要があります。自分と相手の両者がどちらも安心できるようにすべきなのです。どちらか一方に押し付け、声を上げれば差別だと言うのは明らかにおかしなことです。主観的なものに基づく行動が生物学的かつ客観的な事実の壁を越えられるはずがありません。認めていいことと悪いことが存在します。
個人の恋愛の趣向を理由に差別することはあってはなりません。イスラム国家のように同性愛者を弾圧するようなことがあってはなりません。だからといって、LGBTであることを理由に他者の権利を制限させるようなこともあってはなりません。誰が誰を愛そうと自由であり、その恋愛の形を否定することはしません。しかし、結婚のような法律が絡むような問題については別になります。恋愛は個人の自由ですが、結婚は制度であり、個人の自由の範囲から逸脱します。個人同士で完結することは認めるべきですが、精度に関する問題は別問題で、法的な制限がある以上、それは受け入れざるを得ません。ましては憲法の問題が絡んでいる以上、国民一人一人の問題となりますので、他人事では済まされない問題になります。
最後に
こういったセンシティブな問題に左翼は土足で踏み入り、荒らすだけ荒らして、別のところへ移ります。荒らされた人たちは彼らに裏切られたことに気付きます。彼らが非常に利己的で最初からそういった問題に興味がなかったと。以前も取り上げたようにセンシティブな問題に首を突っ込むなら半端な覚悟で臨むべきではありません。半端な気持ちで首を突っ込み、そういった問題の解決の糸口を見つけようともせず、荒らしてしまうことになります。難しい問題であったとしても、万能でなくとも自分なりの解決方法を見出すだけでも、その姿勢は評価されるはずです。軽い気持ちでセンシティブな問題に首を突っ込んではなりません。しっかりとした自分の意見と信念を持つべきです。