見出し画像

公用語と方言

はじめに

みなさんはどこの出身ですか?と聞くと、今住んでいるところと違うことが多いです。かく言う僕もその1人です。今住んでいるところと地元が違うと使う言葉も違うはずです。同じエリアであれば、そこまで思いませんが、関東から関西や関西から関東へ行くと言葉の違いに少し戸惑うことがあるはずです。そういった方言が出たり、使われたりすると同じ日本語なのに通じないということもあります。昔に比べるとそういったことは少なくなってきているそうです。しかしその背景には方言の消滅の危険性があります。今回は方言の消滅について書いていこうと思います。

方言はその地方特有のもの

方言に触れる前に、公用語について触れていきます。公用語はその国の人に広く知られ使われている言葉であり、標準的な言葉であることが多いです。しかし、その国の地域によって、標準的な言葉と異なる言葉が使われたり、違ったニュアンスで使われたりすることがありそれが方言と呼ばれるものです。方言は日本語以外にも英語やドイツ語、フランス語にもあり、アクセントの違いや標準語と違う表現をその地域で使っていることがあります。言葉のある所には必ず方言があります。アラビア語の方言や北京語と広東語はいわゆる方言の域を出ています。
ドイツでもベルリンとミュンヘンとケルンでは使われている言葉であったり、発音が異なったりしていました。特にミュンヘンのドイツ語はオーストリアのドイツ語に近く、ドイツなのにオーストリア寄りのドイツ語を使っているという少し不思議な体験ができます。公用語は国が決めますが、実際に使われている言葉は国境と同じように線引きされているとは限りません。日本でも同じように都道府県の境や地域の境を越えれば、別の方言になることは少ないです。
日本の公用語は日本語であり、公用語に最も近い言葉が標準語です。しかし、標準語は方言ではなく、方言の壁を越えるために作られた統一言語です。明治以前にも各地から参勤交代する大名が江戸に集まった時に将軍の言葉を理解するために標準後は存在しました。「~でござる」などは方言の壁を越える標準語としての役割を果たしていました。これらの言葉は大名やその家臣だけが使えたり、知っていたりすればよく、農民などが知る必要は特になりませんでした。しかし、明治の近代化では身分に関係なく、北は北海道、南は沖縄までの日本国民全員が使える言葉にする必要があり、そこで生まれたのが標準語です。この標準語は日本全国どこでも通じます。
方言は地域の特性を表すものであり、最近ではどこの方言が可愛いかなど取り上げられることが多いです。特に博多弁が可愛いであったり、関西弁が可愛いであったりと言われたりします。個人的には関西弁が可愛いと思ったことは特にありません。住んでいて、使っているとそういった感覚は芽生えません。ある地方の方言を他の地方で耳にすることはあまり多くなく、その地方でしか聞くことができません。東北や南九州の訛りは非常にきついものがあり、外から来たものとしては理解するのに時間がかかります。

使わなければ消えてしまう

以前に文字を持たない言葉は消滅しやすいと書きましたが、文字のある言葉も消滅の危険性があり、その中に方言も含まれています。もともと日本語と別の言葉であったアイヌ語は北海道開拓の際にアイヌ人が迫害され、標準語の教育がされました。近年ではアイヌ文化を保護しようと有志でアイヌ文化を継承し、アイヌ語も継承しています。北海道は歴史的背景からも開拓の影響で方言があまりない地域で、本州から青函トンネルを越えた方が言葉がわかると言われるほどです。アイヌ語は文字を持たないので消滅の危険性が高いですが、動画などの媒体で言葉を聞いて覚えることができるので、文字がなくとも守ることは難しくありません。

沖縄も日本語と異なる言語を使っていて、北海道同様、標準語の教育がなされましたが、本土からの入植が少なく、いまだに方言が残っている地域です。沖縄の方言は歴史的に言えば、方言と言うよりかは外国語に当たるので、標準語から想像のできないような意味の言葉も存在します。日本語という言葉を使っているので、今では沖縄で使われている言葉は方言となります。
方言が強い地域は東北と南九州です。東北の方言は東北の他の県で通じないどころか、県内でも地域によっては通じないことがあります。山形の北と南では方言が異なり、通じないそうです。雪国は冬になると家から出ること機会が減り、他の地域との交流がなくなるため、交通網やメディアが発達した現在でも県内でも通じないという現象が起こるそうです。仙台のような都市部ではあまりそのようなことは感じられませんが、田舎へ行けば一目瞭然で、親切に教えてくれるのですが、全く理解できないということがありました。あの時に方言の恐ろしさを痛感しました。
南九州の方言と言えば、熊本弁、宮崎弁、鹿児島弁があります。鹿児島弁は外国語と言われるほど難解ですが、現在の鹿児島弁ではそんなことはありません。むしろ、熊本や宮崎の方が方言が残っており、鹿児島弁の方が標準語に近くなっています。どういうことなのかと思われたかもしれません。今の60代ぐらいの人は小学校の時に鹿児島弁を使うことを禁止しており、鹿児島弁を使うと懲罰札のようなものを渡され、標準語を使うと褒章札のようが渡されたそうです。現在では懲罰札や褒章札のようなものは使われていませんが、こてこての鹿児島弁を話す若い人は減っています。おばあちゃん世代と孫世代ではまともに話ができないほど、方言が分からなくなっているそうです。鹿児島弁のイントネーションで話す標準語のことを「からいも標準語」と鹿児島では言います。「からいも」とはサツマイモのことです。
鹿児島だけがなぜこのようになっているかは調べた限りよくわかりませんが、方言に関する論文を読んでいると、戦前の国語教育(標準語教育)の名残ではないという見解が見られましたが、熊本や宮崎ではなぜそのようにならなかったのかがよくわかりませんでした。これは勝手な見解ですが、軍隊を立ち上げたのも薩摩で、軍部での暗号は鹿児島弁をベースにして作られたと言われていたことから戦争がからんでいるのではないかと考えています。戦後間もない頃、戦争への拒絶反応は大きく、戦争に関するものはすべて禁止され、それが言語教育にも波及したのではないかと考えています。でなければ、ここまで懲罰札のような制度を導入するには至らないはずです。鹿児島弁には罪はなく、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの精神で言葉までを迫害すべきではないと思います。
鹿児島弁も同じ日本語で文字を持つだけでなく、動画媒体でイントネーションも残すことができるので、完全に消滅することはそう簡単に起こらないでしょう。世代間で言葉が通じなくなっている現状は早急に改善すべきだと思います。鹿児島の良さの1つさがなくなってしまいます。
公用語としての日本語がそう簡単に消えることはありませんが、方言は消えてしまうことがあります。方言は学校で習うものではなく、家族との会話で身に付けるようになります。つまり、方言を話す機会が減れば、方言が消滅するリスクが高まってしまいます。今まで受け継がれてきた方言を絶やさず、これからの世代にも語り継ぐ必要があります。それは文化を守ることであり、アイデンティティーを守ることに繋がります。自分の使っている言葉を無理に標準語に合わせる必要はないと思います。自分の出身地への思い入れは名産品やオススメスポットを紹介することではなく、自身がその地の方言を使うことです。これこそが誇りだと言えます。


最後に

僕は以前、世界の統一言語があれば、誰とでも簡単にコミュケーションが取れるのに、なぜないのだろうと思ったことがあります。しかし、それが大きな間違いであることに気付きます。言葉はその国を表すものであり、アイデンティティーでもあることに気付きました。それを1つのものにすることは国やアイデンティティーを奪い、均質化した世界になっていまい、無味乾燥としてしまいます。むしろ、多様な言語がある方が国や言葉の違いを知るのに非常に役に立ち、視野が広がります。これこそが多様性の尊重だと思います。これは外国語だけでなく、方言にも同じことが言え、方言はその地域を表し、その地域の人や出身者のアイデンティティーとなります。標準語で日本人全員とコミュニケーションを取ることができるようにすることは大切ですが、国語の授業から離れたことでは方言をどんどん使うべきだと思います。それを容易く奪うような真似をしていけませんし、そんな教育をしてはなりません。文化を作るのは人であり、人は言葉を使い、他者とコミュニケーションを取ります。広い意味では言葉は文化です。言葉が1つなくなるごとに文化が1つ消えていきます。文化を守るためにも言葉を大切にする必要があると思います。人間が生み出した言葉というものは非常に重いものです。それを守るのが我々、人間の大きな役割です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集