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音楽とわたし

あれからこんなに時が過ぎたのに
答えは見つからず 自分を責めて苦しんで

これは唄人羽のポストという歌だ。

僕がこの曲を知ったのは唄人羽を知って程なくしてのことだった。

当時僕は中学3年生で幼い頃からやっていた野球を中学2年で辞めて、挫折の真っ只中にいた。
半年経っても一年経っても野球を辞めた自分から離れられずにいた。

そんな時に僕を救ってくれたのがこのポストという歌だった。

この曲は別れた恋人に対する歌なのだけれど、僕にとっては自分を見つめる歌だった。
冒頭の歌詞のとおり、答えが見つからず自分を責めて苦しんでいた。

僕は野球を辞めて間もなくしてギターを買った。
家に帰れば、アコギを弾き鳴らし大声で歌った。

Fもロクに弾けないけれど、ここで辞めたらまた辞めることになると思って弾けないなりに弾き続けた。
唄人羽、19(ジューク)、ゆず、コブクロのTAB譜を買ってコピーをしたり、オリジナル曲を作った。そうして僕の音楽がひっそりと始まった。


電灯のない田舎道、大熱唱で帰宅をして、夕食後自室にこもってギターを弾いた。

はねのCDも一枚増え、二枚、と増えてその度に兄や友達に勧めた。


土曜日の星いいなぁ!!
なれずにめっちゃいい歌やん!!

と兄や友人は各々の好きな曲を語り、一緒にカラオケに行った友人は僕より先に未タイトルを歌っていた。


僕は自分が作った歌ではないのにみんなに褒めてくれることがあたかも自分のことのように嬉しかった。
はねを勧めて好きになってくれたということはなんだか自分のことも認めてくれているような気がした。

野球を辞めて、他に人と比べて勝てるような才能もないと自己肯定感のどん底にいた自分のことを唯一慰めてくれたのが音楽だった。

次第に僕は自分の作った曲で認めてほしいと思うようになり、高校に入りエレキを手に入れロックも聞くようになった。

地元を離れ、バンドを組み中学生のあの頃の自分を救ってくれるような曲を作った。

それが良いのか悪いのかはわからない。でも結果として僕は音楽で売れなかったからそれは正しいことではなかったと思う。
自分が良いと思って作った歌がウケるわけでもないし、そもそもその技量に達していなければ届くものも届かない。


26歳でバンドが解散した。新しいバンドを始めてもうまくいかず、かと言って弾き語る勇気もなかった。そこからは少しずつ曲を作る時間が減り、歌を歌う時間が減り、曲を聞く時間が減った。
経済的にも精神的にも売れないバンドを続けることは限界だった。

後輩のバンドはデビューをして、同世代の友人は会社で部下を持つようになった。
僕はバンドをしたことによって好きだった音楽が嫌いになり、苦しめられ、肩身の狭い思いをした。

音楽に対して感謝の意もあるけれど、それらの感情も持っている。


それから30歳を目前にして僕は正社員になり、今34歳にして最近はようやく純粋に音楽っていいなと思うようになった。

そんな時にふと唄人羽が聴きたいと思った。

中学の時に音楽をはじめたきっかけであり、救ってくれたアーティスト。
僕が今必要としている音楽が聴きたいと思った。


伸びやかで澄んだ歌声。
僕はこの声に憧れた。

その声はあの頃に聞いた歌声と同じではなく、更に透明度が増し、深みがあった。

僕が音楽を始めて辞めるまでの時間とそれ以上の時間。
20年間歌い続けるという深みがある。


そして、今になって思うことは歌詞の洗練さだ。

僕自身、歌詞を作った経験の中で、「誰にでもわかる言葉で易しく伝える」ということがいかに難しいかということはわかっているつもりだ。

人の心を打つ言葉は馴染みのない言葉では伝わらない。
リスナーが意味のわかっている言葉を用いることでその言葉の意味が伝わる。

そこで邦楽ロックで使いがちなのは、簡単な言葉を一捻り加えて伝えるという方法である。

例としては、「犬も歩けば棒に当たるけど、犬にすらなれない自分」のように日常言葉を逆手に取ったり、斜めから切り取るような歌詞の作り方だ。

この手の歌詞は聞き手としてグッときやすいポイントで反抗心を表す表現では相性がいい。
けれどこの大喜利的な歌詞は現在SNSなどで溢れている。僕個人としては上手いことを言って票を集める風習に嫌気がさしている。


なので、「誰にでもわかる言葉で易しく伝える」という表現をすればいいのだがこれが難しい。

「誰にでもわかる言葉で易しく伝える」ということはJ-POPの荒波を真っ向から進むことになる。
飽和し切ったJ-POPの表現の中でオリジナリティを出しながら伝えるということは高度な技術となる。

これは一歩間違えれば、よくある歌詞になってチープなものになるし、キャッチーなメロディにキャッチーすぎる歌詞を用いれば飽きが来るのが早い。
そこのバランスを見ながら言葉を紡ぐ作業は圧倒的な引き算が必要になる。書いては消して、書いては消して一文字一文字、丁寧に文字に起こす作業が容易に想像できる。

このことに気づけたのは今の自分のおかげで中学当時の自分ではわからなかったことだ。
あの頃より深く唄人羽を好きになれたことはとても嬉しい。


昔好きだった音楽がまた好きになることを「一周して好きになった」と表現することもあるけれど、正しくはそうじゃないと思う。


一周して同じ地点にたどり着いたというよりもその場所は螺旋状の上に来ている。
あの時、気づけなかった曲の良さや歌詞の意味が歳を重ねて理解が増している。


なれずに聴いていた当時なんて初恋片想いまっしぐらだったし。
当時も好きで今もとても好きな曲。




歌いたいな、歌いたいな。


壁に立てかけたギターを手に取ったけれど、まだ早いかと思ってこの文章を書くことにした。


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