気を抜けばROM専になってしまう
ROM専とはread only memberの略である。
これは和製英語で、意味は「読む専門の人」を指す。
ROM専を決して非難するわけではないのだけれど、どうにもこうにも止まってしまえば終わってしまうという恐怖心が僕にはある。エッセイストと名乗る以上、筆を走らさなければ。
この恐怖心がどこから湧いてくるのかは分からない。だが退屈は恐いというのが根本にあることは確かだ。
退屈しのぎでギターを始めて、誰かに憧れて歌を作るようになり、歌が楽しくて好きなアーティストのライブに行く。ライブに行ったら当然好きな曲が聴けて楽しい。
僕はその会場の中でも他の誰よりも楽しそうにしている人がいることを知っている。
それはその歌を届けているアーティスト自身だ。
僕がこんなにも楽しいと心奪われている空間で、一番楽しんでいる人がアーティスト自身とわかると、そっち側に行きたくなった。
そういう思いがあってか、何をするにしても「観る」より「やる」方が好きだ。
野球が好きだが、やはり観るよりやる方が楽しい。同じ観るでもテレビで観るより球場で応援に参加する方が楽しい。
そんなこんなで本を読むよりも、こうして書くほうが楽しい。
そんな思いを持っていながらも、気を抜けばROM専になっている。
その理由はなんてたって面白いものだらけだからだ。
SNSに疲れるなんてことを最近書き散らしているが、疲れるとわかっていながらもついつい見てしまうところにある。その理由はやはり面白いからだ。
動画のコンテンツだろうと、テキストだろうとプロ、アマ問わずみんなおもしろいことばかりやっている。
でもそのおもしろいと思っているもので、一番おもしろい思いをしているのはそれを発信した人なのだ。これはやはり悔しい。
こんな小さな葛藤を書いたところで、てんでおもしろくもなんともないのだが、格好を気にするほどの分際でもないので、滑空しながら低空飛行でも遠くまで行きたいと思っている。
歌にしろ、文章にしろ作品とはどのように生まれるのか。
天から降ってきたようにインスピレーションが湧いたとか、気づけば作品ができていたとか世の天才は数々の名言を残している。
僕は当然ながら悲しいことに天才ではないのだけれど、作品を作る瞬間の感覚としてはコップに例えることが多い。
コップの中に水を注ぎ、一定の量を満たし溢れ出た水が作品として生まれる。そのような感覚だ。それに正解も不正解もないのだが、今の自分の感覚を言い当てるならそれが正しいと思っている。
なので作品を発信する上で、一番マズイのは溢れ出るだけの水がないことである。
この水とは他の作品に触れたり、心を動かす経験をすることによって増える。
逆に無感動で、何も物事に思うことがなくなると一向に水は溜まらない。
水が溜まらなくてスプーンで無理やり掬いあげようものなら、それはそれでそれなりのモノしかできない。
吸収するものがないと、いずれ水はなくなる。これがまさに枯渇という状態だ。
歌を聴いて、本を読み、今の流行りも少し気にかけて水を増やさなければならない。単に時間をかけることがいいのではない。とかくコップの容量は大きくとらえがちだ。できるだけ小さく、新鮮な水を。
絞りだすように言葉を紡ぐのではなく、無条件反射的に脊髄からダイレクトに伝わるような。そんな作品つくりが最高だ。
だが、しかしこの世にはおもしろい作品が多い。
ROMした時の感情を閉じ込めて次の作品へと繋げる。そしてそれが世のおもしろい作品の一つになればこれ幸いである。
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