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メキシコ生活記録④ ーこどもの帯同を決めたときのこと

お散歩中の小さい人たち

 

 今回は、メキシコ生活記録①では少しふれただけで、別で書くと言っていたこどもたちの帯同を決めたいきさつについて書こうと思う。
 だらだら書いていたらものすごく長くなってしまったので、お時間のあるときにお付き合いください。読みにくかったらごめんね!

 8月の入り、生まれて初めてセミの鳴かない夏を過ごしている。メキシコにもセミは生息しているみたいだけど、ここにはいない。こんなふうに、日本と違うところはたくさんある。その最たるものが、我が家にとってはインターナショナルスクールだろう。今月末にスタートするこどもたちの挑戦がどんなものになるのか…。始まる前に、帯同を決めたときのことから振り返っておきたい。

こどもには決めさせない
 
こどもたちも一緒に連れていく!これを決めたのは、私と夫だ。こどもたちにも自分の思いは聞いたが、決めたのは私たち親だ。このことは、こどもたちにもはっきりと伝えた。「こどもの自己決断」(自分のことは自分で決めなさい)を重視する普段の私を知っている友人には、少し奇妙にうつるかもしれないが、実はそんなに矛盾していないんだよということを、これから話していこう。
 まず「海外に住んでインターナショナルスクールに通う」という事態を、小3と幼稚園年長に想像しろと言っても無理な話だ。実際「メキシコに行くことになった」と話したとき、当時年長の2号は「え~、おる~」と近所のスーパーに一緒に行くのを断るときと同じノリで答えていた。「ハローズに行こうって言うとんとちゃうんやで」と、どういうことなのか説明していくと、今度は急に泣き出した。驚いて理由を尋ねると「卒園式に出たかった~」と言う。確かにそのときは3月で卒園式を来週に控えていた。うん、だから…。と、このように全然無理なわけ。
 話した当時小3だった1号は、何だかよく分からないなりに、遠くに行くことだけは理解した様子。お友達と離れるのが…と言うので「誰と離れるのが悲しいの?」と聞くと、数人の名前しかあがらず「それくらいやったら繋がっとける」という私の一声で納得してしまう始末。挙句、近くの美しい海の写真を二人に見せるとテンション爆上げで「行きたい!行きたい!」とお祭り騒ぎ。つまり、この時のこどもたちにはまだ事態を理解する力がなかったわけだ。
 この帯同は、彼らにとって素敵なターニングポイントになるかもしれない。でも同時に、暗黒の4年間になる可能性だってある。意地悪な人は世界中にいるし、イジメだって日本だけの問題じゃない。おまけに言葉の壁もある。確かに、二人ともおしゃべりで人と関わるのが好きな方ではあるけれど、日本での振る舞いを基準に「海外でもやっていける」などと判断していいものなのか、私には分からない。こんな事態のリスクマネジメントを小3と年長に想像してみてと言う方がどうかしている。自分で選んだメニューはちゃんと自分で食べる、くらいのリスクマネジメントが関の山だ。
 だから、こどもには決めさせなかった。これは彼らが決められる案件ではないと思ったから。
 だから、私たち親が決めた。何もかもがうまくいかなくて泣いているときに、こどもたちが安心して親のせいにできるように。
 私は常々「他人のせいにするな」とこどもたちに伝えている。理由は、「誰のせいか」にこだわってもたいだい何の解決にもつながらないから。「誰のせいか問題」は取り扱わなくても、トラブルは収束できる。道徳的な見地からではなく、現実問題として私はそう伝えている。実際には「あの人が〇〇したから××になった!」という悔しい事態はよくある。でも、その時でもまずやるべきは起こってしまったトラブルへの対処だ。「あの人のせい=自分は悪くない=むしろ被害者」という主張は、トラブルを他人事にしてしまうので対処を遅れさせる。またあまりにも「自分のせい」だと思い込んでしまうのもフットワークを重くする。要は、トラブルが収束した後に、そんな「あの人」を信用してしまった自分の思考回路を見直して、同じ過ちを繰り返さないように色々微調整すればいいだけ。見直すのはいつも「自分の決断」であって、他人の振る舞いはその参考資料に過ぎない。でも、今回の海外帯同の件は、こうした通常案件とは違う。
 まず、言ったように、彼らには海外帯同という事態をちゃんと想像して、理解することができない、あるいはかなり難しい。だからこれは、「自分のことは自分の頭で考えて自分で決める」という私が常日頃推奨していることが、そもそもできない案件だ。これは大人だって同じ。知らないことは決められない。フランス語のメニューを見せられても決められないでしょ?つまり「自分のこと」にできないわけ。
 加えて、彼らは私たち親の顔色をデフォルトでうかがっている。親がこどもの喜ぶ顔が見たいと思うように、こどもだって親の喜ぶ顔が見たいのだ。だから、私たちがそう仕向ければ彼らは空気を読んで「行く」と言うだろう。つまり、表面上は自分で決めたような形にできてしまう。だからこそ、決められないでいるこどもたちに対し「決められないのは当たり前だから、私が決めるね。あなたたちも連れていく。」と、きちんと言葉にした。だって、この案件についてはだけは「あなたが決めたんでしょ!」とは、言いたくない。言葉の通じない環境で頑張るこどもたちに「私には関係ないよ!自分で何とかしなさい!」って私が思ってるかもなんて、こどもたちに勘違いさせたくない。
 なぜそんな勘違いがおきるかというと、「自分で決める」とは、「ことの顛末に責任をもつ」ということまで含めるからだ。では、この場合の「責任をもつ」とはどういうことなのか?それを私は「トラブルが起きたとき、その対処を他人事にせず、自分のやるべき事とする」ということだと思っている。要は「当事者としての自覚をもつ」ってこと。だから、「子供が決めた」=「子供だけが当事者」=「親は当事者ではない」ともなってしまう。無関係な人にとやかく言われるのは誰だってうざいけど、逆に言うと、観覧席からは選手を助けることができない。日本にいるなら自分で決められる案件の方が多いので喜んで観覧席から旗を振るが、海外生活において親が観覧席に座ることは、こどもにとってデメリットでしかないだろう。少なくとも、最初のうちは。だから、私は、海外で格闘する彼らの頑張りを他人事にしたくない。親も当事者としてこどもの苦労に付き合うと、私たちはそう決断したのだ。「こどもには決めさせない」とは、そういう親の決意でもある。
 【余談だけど、ここでポイントなのは「責任をもつ」ことを「自分で解決する」と定義してないことなの。だって、そうすると「自分で解決できないことはするな」ってなっちゃって、どんな挑戦もできなくなるから。だから、私はいわゆる自己責任論には賛同していない。また、こどもの成長に見合った責任をもたせることが親の仕事だと私は思っているので、親が何でもいつまでも代わりに決めたり、こどもの決断の責任をこども自身には背負わせず、親ばかりが負ったりすることにも賛同していない。】

これは挑戦
 つまり、私たちの意見をまとめると「こどもに安心して挑戦させたい」ということになる。海外帯同って、①でも言ったけど「リアルマザー付き留学」なわけだから、中高生のこどもを1人で留学させるリスクを思えばメリットの方が多い。だから、このチャンスに挑戦してほしかった。とはいえ、どう転ぶかは予測不可能。そう、これはもうギャンブルみたいな賭けに近い挑戦なのだ。だから、自分では決めさせなかったし、「辛いときは親のせいにしていい」と伝えてもいる。それは「自分を責めなくていい」ということでもあるし、最悪の事態になったとき「誰のせいでこんなことに…」と悩む時間の節約でもある。だって「親(私たち)のせい」ってあらかじめ決め打ちしてるから。だから私も準備ができる。とはいえ、この準備は「謝る」ことではない。「私が悪かったね、ごめんね」って言っても何の解決にもならないから。「ごめん」と思うなら、謝るよりもサポートを強化すべきでしょ。だから、こどもたちがじゃんじゃん泣き言を言っていい環境を用意するのが私の役目だ。
 実際、帯同を決めてから4年あまりが経過してしまい、彼らは中1と小4になってしまった。その間、泣き言も行っていたし、行きたくないと大泣きすることもあった。でもその度に私は謝るのではなく(もちろん謝りたい気持ちはあるのだがぐっと堪えて)、「辛いよな」「一緒に頑張ろうな」って言いながら、こどもたちの辛い気持ちを「もういいかげん泣きやみなさい」などと止めることなく思い切り吐き出させていた。これは冒険なんだから、トラブルは付きものだし、うまくいくかどうかなんて誰にも分からない。だから、誰も謝る必要なんてない。
 何かあれば私たちも一緒になって対処する。絶対に突き放したりしない。自分を責める時間はもったいない。さっさと他人のせいにしてスッキリ前を向けるなら、その方が何倍もいい。私もそうして気持ちを整理することがよくある。そうしていく中で、こどもたちにも「自分でも対処できること」が見えてくるはずだ。その時は喜んで、自分で決めてもらおう。
 自分で決められない案件なのに無理くり決めさせられても、自信を失うだけだろう。だから、こどもたちの自己決断能力の向上を邪魔しないために、今回の海外帯同案件は親が決めたってわけ。

退路の確保
 これはギャンブルみたいな冒険の類だからこそ、私は彼らに退路を確保している。退路とは、さっき書いた「辛いときは親のせいにしていい」ということと、「無理だったら帰る」という約束。学校の先生に海外帯同のことを伝える時はいつも「無理だったらすぐ帰ってくるんで、来年の今頃はまたお世話になってるかもしれません」と付け加えていた。退路の約束が本当だってことを横にいるこどもたちに分かってもらうためにも、早期帰国したときにすんなり受け入れてもらえるためにも。
 この退路の確保は、年齢に関係なく誰にとっても本当に大事なことだと思う。背水の陣でないと頑張れないこともあると思うが、私はいつも「無理だったらやめる!」と心の中で叫びながら頑張るようにしている。ドラゴンボール世代の私は、何かあるとすぐ修行するクセがあり、修行すれば(私さえ頑張れば)何とかなる(=何とかならなかった場合は私の頑張りが足りなかったせい)と思ってしまうクセがある。それで30代後半に身体を壊した。
 人生なんてそもそも全部冒険なんだから、うまくいかなくて当たり前。うまくいったらラッキー。無理ならやめて次に行けばいい。実は夫にも同じことを伝えてある。人生において退路を確保しておくことが一番大事なんじゃないかと私は思う。

何かを決めるとは
 何かを決めるとは、何かを決めないと決めることだ。何か1つを選択するとは、他の選択肢を選択しないと決めること。つまり、海外のインターナショナルスクールに通うと決めることは、日本の学校には通わないと決めることと同じ。この決めなかった選択肢のことを忘れずに、日本の学校で習うはずのことを、家庭で教えるタスクを責任もってやります。
 次は、どうやって家庭学習をしているかについて書こうかな。
 彼らのインターナショナルスクールライフがどうなるのか、それはまた追ってご報告いたします。

※ 最期に注意喚起
 これはあくまで我が家の話であって、こどもは帯同させるべき!とか、大事なことはこどもに決めさせてはいけない!親が決めるべき!などということを勧めているわけでは全くないし、こどもの帯同を躊躇した方々へ対する反対の意図も全くありません。第一、我が家のこどもたちもまだインターナショナルスクールへ通いはじめる前なので、こども帯同のメリット・デメリットについて実感するのはこれから先の話です。それに、持病があるとか性格的なこととか、ご家庭ごとに事情は異なると思います。なので、あくまで我が家の話としてご笑覧頂ければと思います。


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