ただの記録 ーなぜ勉強しなければいけないのか?後編
さて「なぜ勉」後編です。すごく長くなったので、本当にお時間あるときにお読みください。
前編では、恩師の言葉を紹介し、よく言われているような答えへの反論をまとめた。そこで、どの答えも間違っているとは言えないが、説得力には欠けているよねっていう考察結果が得られたわけだ。
で、いよいよ今回は「私の答え編」となる。結論を先取りしておこう。「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いに対する私の答えは「自分の情報処理能力を高めておくため」だ。つまり、恩師と同じ意見。では、この答えに私がどのように納得しているのか、これから説明していこう。
まずは問いの吟味から
何かを問われて答えるとき、多くの人がすっ飛ばしてしまいがちなのが、この「問いの吟味」だと思う。「問いの吟味」とは「何が問われているのかを明確にする」っていうこと。これを飛ばすと、どうであれば答えたことになるのかが不明瞭なままになるので、前編で考察したような様々な答えが乱立してしまう事態に陥る。だから、「問いの吟味」はちゃんと答えるための必須作業なのだ。では、やってみよう。
「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いの中にある「勉強」は、「学校で教わる勉強」「受験のための勉強」のことだとさしあたり解釈していいだろう。学生時代のその中でこそ、この問いは深刻化するからだ。学校教育の課程を終えた後にも勉強が続くことはあるだろうが、それはもう個人の自由選択の範囲だろうから、「なぜ勉」が身につまされた問いになることは少ないだろう。とはいえ、社会人になってから職場の要請などで勉強せざるを得なくなることもある。だが、この場合は選択の余地がない(やるしなかい)。つまり、この問いを深刻化させる背景には、「勉強が強制されている(少なくとも問うている本人にはそう感じられている)と同時に、やらなくても別にいいような気もしている」という葛藤があると言える。
だとすれば、この「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いは、「別にしなくてもいいような気もするのに強制される学生時代の勉強を頑張ることに何か意味はあるのか?」ということが問われていると解釈することができる。
くわえて、「なぜ勉」を深刻化させる人は、こうした「強制」をマイナスに捉えていると言える。だが、「強制」そのものにマイナスの意味が含まれているわけはない。だって、「趣味に没頭しろ」と強制されたらむしろうれしいでしょ。大事なのは、「その強制を本人がマイナスに捉えている」という点だ。なぜか。強制されている内容が「おもしろくないこと・嫌なこと」であるにもかかわらず、それを行為として「頑張る」ことをも強制されているからだ。こんなのもう、強制労働レベルじゃん。この石を積んだらどうなるのか知らされないままに石を積まされる苦役…前世でどんな悪いことをしたんだって思うよね。モチベーションなんて上がらないよ。
このように問いを吟味した結果、次のような道筋がみえた。つまり、「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いは、「別にやらなくてもいいような気がするけど強制されている学校のおもしろくない勉強を頑張ることにどんな意味があるのか?」ということが問われていたわけだ。これに答えれば、「なぜ勉」に答えたことになる。そして、それに成功した暁には、強制労働としての勉強とは違う観点を悩める学生に提案することができるはずだ。
情報処理能力を上げるとはどういうこと?
①「処理能力」
「情報処理能力」を分解すると、「情報」と「処理」、「それらに関する能力」となるだろう。まずは分かりやすい「処理に関する能力(長いので、以下、処理能力と書くよ)」からみていこう。
「私が将来八百屋になったらルートの計算なんてできなくても絶対問題ない」と学生時代の私はくさくさしていた。実際、私は八百屋にならなかったし、八百屋にルートの計算が本当に不必要なのかどうかも分からない。でも、今の私にはこの仮説がどんな前提のうえに立っているのかは分かる。それは「学校で教わる勉強は将来役に立つ」ということであり、この場合の「役に立つ」が「就く職業の助けになる」という意味で使われているということだ。だとすれば、「何の職業に就くのか分からない人」「就く職業をすでに決めている人」にとっては、範囲の広い勉強内容の必要性がぼやけてしまうのは仕方のないことだろう。文系学部に進学したかった私にとって、数学が苦役だったように。
もう言ってしまおう。実は「学校で何を習うかという内容はどーでもいい」のだ。重要なのは内容ではない。重要なのは、「適切な知識を適切な形にしてアウトプットする能力」の訓練をすることなのだ。だから、ひとつひとつの知識が何の役に立つか立たないかという観点は、実は度外視していい。
ルートの例に戻ってみよう。確かに私が実生活でルートを使うことはまずない。ルートを知っていてよかったと思ったこともない。だが、中学の時のルート計算の問題は、私たちにルートの知識(ルートっていうものがあるんだよ)を与えることだけが目的なのではない。その先、すなわちルートの使い方まで私たちは教わったはずだ。つまり、私たちは、ルート計算の仕方を頭に入れて、ルートの問題が出たら問われていることに合わせてルートの知識をリサイズし、適切な答えを導くという練習をしたはずなのである。より重要なのは、この練習だったわけ!だから、内容はルートでも漢字でも星座でも水溶液でも電流でも三角比でも古文でも振り子の原理でも年号でも何だっていい。「適切な知識を適切な形にしてアウトプットする能力」の訓練を、私たちは学校で行っているのだから。
そして、この「適切な知識を適切な形にしてアウトプットする能力」こそが、ここで言う「処理能力」なのだ。
これは、大人になって、いや大人になる前であっても、高めておいて損はない。仕事をすぐに理解して覚えて実行できる人、ややこしい問題を解きほぐせる人、自分や他人の込み入った主張をシンプルにまとめられる人、一見無関係に思えるような様々な知識をつなぎあわせて新しい観点を提供できる人など、私が出会ってきたすごい人たちはこの「処理能力」が高い場合が多い。こういう人たちは、どこにいたって何をしていたって有能に違いないだろう。まさに、さくさく動くハイスペックのパソコンのよう。対して「処理能力」の低い人は、重くてすぐに固まる。でも、私たちはパソコンとは違って人間なので、死ぬまでアップデートし続けられるよ、と追記しておこう。(気休めではなく、私は本気でそう思っている。)
また、こうした「処理能力」の高さが、コミュニケーション能力と直結している人たちもいる。例えば、自分の常識とかけ離れた他者と出会ったとき、「処理能力」の低い人は怖くなって処理できない相手を拒絶するだろう(重くなって固まる)。場合によっては排除しようと攻撃するかもしれない。つまり、どんな人が来ても「適切に処理できる」という自信が、多種多様な他者の受け入れを可能にし、他者に自分を開くことを可能にしているのだ。人間関係に「処理」という言葉を使うのは適切ではないかもしれなしし、冷たい印象を抱く人もいるかもしれないが、ここでの処理は情報処理の「処理」なので「いい感じに整える」くらいの意味で使っていると承知しておいてほしい。
コミュニケーションの例を出して伝えたかったのは、「処理能力」が高くないと、安心して「情報」を仕入れられないという順番が大事ということなのだ。まずは「処理能力」、次いで「情報」、この順番を意識せずに、「情報(学校で習う知識)」ばかりを詰め込もうとするので、私たちの頭の中はまるでゴミ屋敷のようになってしまい、勉強から逃げ出したくなってしまうのだ。順番が大事と分かったら、次は「情報」について考えてみよう。
情報処理能力を上げるとはどういうこと?
②「情報」
「情報」と表しているが、「なぜ勉」においてこれは「学校で教えられる知識」にあたる。昭和の詰め込み教育を受けてきた私は、何のために覚えるのか分からない知識をぎゅうぎゅうされるのが苦痛が仕方がなかった。だからといって、学校で習うことなど全部無駄だと言いたいわけではない。むしろ逆で、どんな知識でも貯めておいて損はないと私は思っている。それでも無駄な知識があるとすれば、それは自分が無駄にした(有益に使えなかった)だけで、知識そのものが無駄なわけではない。「処理能力」が高ければ、どんな知識でも整理整頓してプールし、その時がきたら取り出せるようにしておける。「処理能力」の高い人にとって、使う前から無駄と決めつけられる知識などないわけ。だから、私が出会った博学な人たちの知識の幅は驚くほど広い。込み入った専門知識からマイナーな漫画のことまでプールされてたりするので話していてずっとおもしろい。自分の得意分野の話しかしない話題の狭い人より、引き出しの多い人の方が話題が豊富で魅力的でしょ。まぁ、そういう人を魅力的だと思えるかどうかも自分の「処理能力」の高さ次第なんだけどね。
つまり、「処理能力」さえ高めておけば、「情報=知識」を取捨選択する必要がないし、話す相手やTPOに合わせて適宜情報を選んで取り出せるので日常生活の不安も少なくなるんじゃないかと私は思っている。(ただ、この「適宜」も曲者で、コミュ障と言われる人たちはこの「適宜」が難しいんだろうとは思うんだけどね。)
情報処理能力を上げるとはどういうこと?
③「処理能力」の訓練はゲーム感覚で
ここまで読んで、そうはいっても「おもしろくないことは覚えられなし頑張れない」と言いたくなる人もいるだろう。これには私も完全に同意する。だが、学校で鍛えているのは「処理能力」なので、インプットする情報がおもしろいかどうかという観点は度外視できる。「内容はどーでもいい」と言ったはずだ。それでも内容が「おもしろくない!」と嘆くなら「おもしろくないことをどうやったら覚えれるか」というゲームだと思えばいい。学生時代の私はここを割り切れなった。
大人は「学生の本分」とか「一番大事な時期」とか言ってくるし、ゲームや漫画に没頭したら怒るのに勉強には没頭しろと言う。だから、勉強って特別で崇高なものみたいな気がしていたから、「ゲーム感覚」で挑むという発想がなかった。でも、考えてみたら学校の勉強なんてゲーム要素しかない。ルール(分からない所はXとする etc.)を覚えアイテム(解の公式 etc.)を手に入れ、敵に勝つ(テストで点を取る)。この繰り返しでレベル(偏差値)を上げ、どんどん強い敵に勝っていく(難関校へ合格 etc.)。ただそれだけ。それだけなんだよ!トランプで大富豪を楽しみたかったら、まずルールを覚えないと話にならない。だから、「おもしろくないことは覚えられないし頑張れない」と言う人は「2が最強とかおもんないから無理」って言ってるのと同じ。じゃ、やんなきゃいいじゃんって話だし、大富豪やりたいんならルール覚えるくらいのモチベーションは自分で用意しておいでよとも思う。
情報処理能力を上げるとはどういうこと?
④まとめと答え
これで「なぜ勉」に答えるための要素がやっと揃った。
① 学校でやってるのは「処理能力」を高める訓練
② 「情報=知識」の収集が必要
③ ①はゲーム感覚でやるべし
それでは、「なぜ勉強しなければいけないのか?」改め「別にやらなくてもいいような気がするけど強制されている学校のおもしろくない勉強を頑張ることにどんな意味があるのか?」という問いにちゃんとに答えていこう。
私の答えは「学校の勉強を頑張るとは、第一に「処理能力」を高める訓練をするということである。したがって、第二に、この訓練に必要な「情報(=知識、アイテム、材料)」を集めて使うことが必要になる。学校の勉強は、このトレーニングにちょうどいい。だから、学校の勉強を頑張るとは、「情報処理能力」高めるトレーニングをすることに他ならない。で、この「情報処理能力」を高めておけば、おもしろくて魅力的な人になれる。どんな職に就いていても、どこにいても、どんな生き方をしていても、きっといつも自由でいられるはず。勉強を頑張ることには、こうした意味がある。でも、それくらいの意味しかない。だから、学校の勉強は崇高なものでもないし、そんなに即効性もない。なので、「情報処理能力」の訓練なんて、いっそゲーム感覚でやってしまえばいい。で、それでもやりたくないと思うのなら、別にやらなくていい」。と、なる。
そう、私は「勉強は絶対にした方が人生楽しい」と思ってはいるが「やりたくないならやらなくてもいい」とも思っている、いや、思おうとしている(笑)。 ついつい自分のオススメは他人にもオススメしたくなっちゃうクセがあるので、1号2号および夫にウジハラ(ロザンの漫才でネタにされていた、知識を押し売りしてくる宇治原のようなハラスメント)だと私はたびたび告発されているから気を付けないと。
でも、本当に、学生やこどもが「強制されている」と思うのは、周囲の大人が圧をかけるからだと思う。確かに「強制されたら嫌なことでも頑張れる」能力は大事だけど、ただ闇雲に頑張るんじゃなく「嫌なことを頑張るにはどうすればいいか」と問い直せる能力の方が汎用性が高いでしょ。そう、「情報処理能力」の高い人は「自分に合った努力の仕方」を知っている気がする。だから情報処理が的確で早い。私もまだ模索中。
とはいえ、自分の大切な人が苦労しないようにサポートしたいと思う気持ちは誰にだってある。親ならなおさら強いだろう。でも、学生にだってこどもにだって「苦労する権利」「失敗する権利」はある。心配や愛情のあまり、学生やこどもの「苦労」や「失敗」を周囲の大人が取り上げてしまっては、本人たちの「情報処理能力」の訓練にならないから注意が必要だ。
最後に -勉強を頑張った人に待っているいいこと2つ
最後に少し。「別にやらなくていい」とは言ったけど、それでも勉強を頑張った人には、ちゃんといいことがあるんだよってことを伝えておきたい。まずは一つ目は、「学問」というボーナスステージ。「勉ることを強いる」と書いて「勉強」、「問うを学ぶ」と書いて学問。もちろんこれがボーナスになるかどうかは人によると思うけど、大人になってからの勉強が楽しいと思う人はきっと「なぜ?」って問うてもいいんだって気付くからじゃないのかな。その時に「問い方」「答えの導き方」を知っていればきっと、勉強はいつだって手段ではなく、目的にできる。勉強そのものを楽しみ味わうことだってできるのだ。
学校で習う知識(=情報)の取得を、「テストに出る」「資格につながる」「受験に必要」といったように何か他の目的のために有効な手段としてしか捉えない観点にこそ問題があると私は思っている。この観点に立つと、学生自身が「この知識を覚えることに何の意味があるの?」と悩んでしまうし、文系に進学するから私の人生に数学は不要など勝手に取捨選択してしまうかもしれない。それに、この問いを投げられた方も「将来のため」といったふわっとしたことしか言えない。当時の私はここで引っかかって動けなくなってしまっていた。この金縛りを解いてくれたのが「受験勉強っていうのはさ、ただの情報処理だから」という言葉だったわけです。この恩師の言葉で、「大学入試とは、決められた範囲の情報をいかに効率よくまとめ、理解し、適切に取り出せるか、という能力が問われているテストだったんだ!」と一気に理解した。高校入試も、大学入試も、これを知っていたら受験勉強にもっと身が入ったのにと悔やまれるが、どんな形でも、私は結局ボーナスステージ(大学・大学院)まで行けたわけだし、そこで恩師をはじめ今でもお世話になっている尊敬すべき先生方や先輩・後輩・同期たちに出会えたわけなので結果オーライです。
恩師のY谷先生は若くして鬼籍に入られてしまったが、先生からもらったたくさんの言葉は今も私の中で生きている。学生時代に頑張って「情報処理能力」を高めておけば、将来安泰かどうかは分からないけど、素敵な言葉をくれる人たちには出会えると思うし、そんな人たちに出会ったときに、きっとそうだと分かる。逆に、逃げなきゃいけない人たちに出会っても、きっと分かる。
いいことの2つ目は、知識があれば、見える世界が違うっていうこと。このことは、森野キートスさんが「人は知ってることしか見えない」という記事にうまく表してくれているので引用してみよう。
「処理能力」を高めつつ「情報=知識」も手に入れて「情報処理能力」を高めていないと、見えない世界があるのだ。しかも物理的に「見えない」のではなく、「同じものを見ている」のに一方には見えて一方には見えないという類の「見えない」。これはなんか、見えた方がカッコいい感あるよね。思えば、高校生の頃に村上陽一郎の本を読んだ時に感じたのは、この「見えている」カッコよさへの憧れだったんだろう。だから、私が「勉強は絶対にした方が人生楽しい」と思うのは、このカッコよさを手に入れられるからだ。私には見えていなかった景色を見せてくれる本や人との出会いは、きっと勉強のその先のお楽しみなのかもしれない。
何か最後にいっぱい書き足しすぎてる感があるけれど、私だって今もずっと勉強中だし、努力の仕方を模索中だし、勉強は学生時代だけで終わらない。それに、学校の勉強は「情報処理能力」の訓練にちょうどいいってだけで、学校でなければ訓練できないわけでない。だから、勉強を頑張れなかった/頑張らなかった人たちの中にも尊敬できる人や金言をくれる人もたくさんいる。そういう人たちは学校とは違う場所で訓練をしたんだろう。だから、どうしても学校と合わないなら、別のトレーニング場を探せばいいし、既卒生にだって誰にだっていつまでもトレーニングするチャンスはある。ただ、学校はコスパがいいってだけだ。だから、学校で頑張れないなら、頑張れるところで頑張ればいい。大富豪がイヤなら別のゲームをすればいいのだ。それには、「別のゲームがある」と知っている必要があるんだけどね。
ここまで読んでくださってありがとうございます。自分の考えをコンパクトに分かりやすくまとめるは難しい。色々と偉そうに語ってきたけど、私だって森野キートンさんが描く先生のようになりたくてまだまだ勉強中。道のりは長く楽しいってことで、〆ておきます。
次からはメキシコ関連記事に戻ろう。来週からはいよいよ、インターナショナルスクールがスタートだ!