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十条放浪記

 11月10日の日曜日、東京都北区十条を訪れた。黒部峡谷の秘湯の後に、十条? とは言わないで欲しい。私には、どちらも冒険であり、自分の内と向き合う旅だから。


 埼京線を降り昔と変わらぬホームから改札を抜けた瞬間、目を疑った。十条の駅前にタワマン建ってる! それも地上数十階レベルのだ。喫茶店があったはずの駅前ロータリーは見えない。タワマンの足元に十条銀座の入り口はある。

 十条は電車で新宿まで10分、湘南新宿ラインで都心部から神奈川まで行ける好立地、北区とはいえ23区内だ、富裕層が住んでおかしくない。自分の記憶の下町の十条と、富裕層が結びつかないだけ。
 35年も経てば何もかも変わる。

 昨日会った女の子は24年間ずっと田舎暮らしで、いつも素敵な笑顔の純朴な子だった。10か月前に結婚して東京で旦那と二人で暮らすと言った時に、すごく心配だった。
「東京は怖い人もたくさんいるから。知らない人に話しかけられても、無視して逃げるんだぞ」と私は教えた。35年前、駅のホームで原理研究会にスカウトされかかった経験からのアドバイスだった。
 昨日会ってみると、黒髪を茶髪に染めて、また笑っている。東京生活どう? と聞いてみると「楽しいです!」 物価も高いし、満員電車で通勤しなきゃいけないし、自然も少ないコンクリートジャングルだけど、楽しいのね。わずかな月日で、東京に染まっていた。

 私は駅前から歩き出した。グーグルマップに頼らず、記憶と足任せで行こう。35年前、私は十条に住んでいた。大学生だった。当時の学生寮は同じ場所に建っている。そこを再び訪ねるのが、この旅の目的の一つ。ずっと、そうしたかったが、生きるのに忙しくてできなかった。その夢が今日叶った。
 十条駅から学生寮までの短い道を迷って、帝京大学のキャンパス前に出てしまった。ゆるい下り坂沿いに立ち並ぶマンションときれいな住宅があり、昔ながらの町らしい家屋も残っている。二十一世紀と二十世紀が入り混じっているようだ。

 あの頃は、と書き出すと思い出話を語りだす、つまらない老人のようだけども、語らせてほしい。学生寮の個室は3畳しかなくて、机の前の窓には鉄格子がハマっていた。狭く暗い部屋で、大学にも行かず勉強もせず、一日ゴロゴロしていた日。隣の学校のスピーカーからの音声だけが遠く響いてきた。
 夢はあったが、あまりに遠く、どうやって辿りつけばいいのか、わからない。クラスメイトたちは賢く、美しく、輝いていた。そんな中で、アルバイトに行く以外は、半分引きこもりみたいに暮らしていた。寮の先輩に連れられて、十条銀座の奥の居酒屋で酒を飲んで、下戸の私はトイレで吐いた。深夜に寮を抜け出して、松屋で牛丼を食った。

 その松屋はもうない。代わりにではないが、高層マンションの一階がココスになっている。当時ファミリーレストランと言えばスカイラークで、それも十条にはなかった。時代の流れを感じる。

 目標の学生寮訪問が十五分くらいで終わったので時間が余っている。十条銀座から東十条へ抜ける通りの途中に、演芸場があった。いわゆる大衆演劇をやっている場所。今もあるのは確認済みだ。
 そこへ行ってみるか。

 十条銀座の長いアーケードを抜け、富士見通りという商店街を歩くが、演芸場は見つからない。おかしいな、そんなに遠かっただろうか。
 商店街が大きな幹線道路にぶつかる。信号待ちの間に、次々と車が走る。おかしい、記憶と違う。


 交差点を渡ると、その先にもう商店街はなかった。住宅街だ。本格的に道に迷ったか。ここでようやくスマホを取りだし、地図検索をかけてみるが、演芸場だけではひっかからない。もう、これで終わりか、と思った時だった。

「何かお探しですか?」
 いったん私の前を通り過ぎた自転車の女性が、わざわざ引き返してきた。メガネをかけた五、六十代くらいの女性が、サドルに腰かけたまま地面に足をついて、私をみている。
「何か迷っているようだったので」
「あ、いや、その……」
 私はためらってから、思い切って訊ねた。
「この辺に、演芸場ってなかったですか?」
「ああ、ありますよ。ここは上十条だから、十条銀座の方に戻った方がいいと思います」
 ありがとうございます。お礼を言いながら、信じられなかった。見ず知らずの通りすがりの他人のために、足を止め引き返してくれる。何なの、この優しさは。

 教えられたとおり引き返してみると、東十条への別の道があった。その時には、演芸場の名前を発見し、それで地図にも案内が出てきた。
 その篠原演芸場への道は細い路地で、遠くの踏切へと人が歩いていて、路地に面した家の玄関前に植木鉢が出されている。
 東京は全部きれいに消毒され、整理された、記号化された世界だと思っていた。そうじゃない。35年前そのままじゃないけど、人間くささが残っている。

 35年前、人生の道が見つからなくて放浪していた、あの頃も、訊ねたら道を教えてくれた人がいたのかもしれない。東京は大都会、悪い奴にたくさん出会うが、いい人もたくさん住んでいる。それだけのことだったのに、長い回り道をしてしまったらしい。
<FIN>


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