多様性を受け入れる前に私たちが前提条件にもっていないといけないもの。

「いけないもの」なんていうとちょっと傲慢かな〜と思える自分の謙虚さが好きです。よし。

中途発達の人たちのことを考えると自分の傲慢さについての疑いに拍車がかかる。いや、だって、「自分で自分を疑えない」というのが根本の違いであり、逆にいうと自分の好き嫌いに対してははっきりしている羨ましさはある。周囲の人と同じ感性を持っていられるというのも「当たり前」ではなく、「特性」と考えるべきと思うと世界はすごく変わってきた。

確かに「普通」と言われる人が感じる「普通」を感じられない人がいるその「存在」については、たとえあったことがなくても、私の想像力でも想像できる。

が、中途発達(グレーゾーンとしている)のことを自分のHSPと比較して、似ている、真逆、結局根本が全く違う、なのに、表層の表現(症状)としては類似する部分が出てくる。と言った過程は目から鱗のうろこっこだった。

問題と思えるのはまず、「普通」にみえるという見た目に出てこないその有様だろう。仕方ないよね。「人は見た目が9割」とかいう本があるくらいだし、男性か女性かって大体見分けられるし、目からの情報が一番最初に脳に届くんだもん。

さて、その違いが見えない方がいいのか、見えた方がいいのか。

具体的にいうと「ヘルプマーク」の意味とは。ってとこだろうか?
(ヘルプマークの意味|赤地は「支援が必要」という意味で、ハートは「支援していただきたい」という気持ちを表しています。)

おぉ、なんと謙虚なのでしょう。中途発達の傲慢さに当てられてヘトヘトだったので、喜び勇んでお助け申し上げたい気分です。

ここで大切なひとつは、「何に支援が必要」かを本人が知っていて、「必要な時に助けてください」と言えるかどうか。

これはヘルプマークを持つ人の「条件」になるのではないだろうか。

その流れで、中途発達の人の中で「発達障害」と診断を受けた場合、ヘルプマークのような役目を持つのかどうかという点。

答え|(経験談から)一般社会では発達障害だから多めに見ては通用しない。
→労働者支援団体に行くなど、自分の障害にあう環境を探すべきが道理にあいそうだ。

では、中途発達の子供達に「普通の生活(今回はシャアハウスに住むこととする)をさせてあげる(あげるってまた上からだけど、実際事実を知って何かさせようとする大人たちはこんな感じだな〜と最近思う。どこかおごってるか猫可愛がり)」とはどこまでいけるだろうか。

・本人たっての希望であること
(いろいろ書き連ねたけど、、、結局、ここだな。。。)

あーなるほど。ここ(田舎)がちょっと異常なんだ。なんか子供達に「選択肢、経験、居場所を」みたいなスローガンがあるんだけど、これが歪んでるんだ。

・特定の子どもに自分の人脈を勧めている(平等性がない・贔屓)
・子どもたちを名目に自分たちの活動と抱き合わせ(利用主義)
・表面的に無駄にクリーンに押しすぎ

てなわけで、批判材料バンバンである。
(ちなみに|批判とは|良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること。悪いことを抽出することではないのだ)

なんだ、結局大人の「ずるさか」。。。
そうだよね。二十歳過ぎたら自己責任といいつつも、社会に出たてで、これから社会のこと学ぶ子供達が、いいよいいよって言われていちいちの行動居直ってたら、そりゃこうなるよね。

10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」ここら辺をもう一度読み直すか。結局、読むだけではなく、現地で使いこなせるだけ読みこなすことがここら辺では重要なんだな。しかも、この本はなにがずるいのかも解説してくれるから大事だな。

この本に関しては結局、「毒親」の連鎖を強く感じる。
・自分がそう育てられたから、そうしてしまう。
・自分がそう育てられたから、そうしないようにしている。
どちらも正しく、どちらも間違っている。つまり「育てられたから」では、なく私たちは今に対して自分で考えるものさしが必要なのだけれど、過去からの経験則と感情系脳番地の影響で思考系脳番地をうまく発動できない。つまり感情優位で理論的なとこを無視しすぎる傾向がおばはんたちご一考には顕著に見られる。(これを実感すると女性に任せられない仕事が存在すると実感せざるおえない。がこれってどこから差別よ。)

今までの習慣を優先したり、感情に添って判断を委ねたり、つまり、考えることをやめた老害だらけだったのがデフォルトで、次に中年世代の「やり散らかし」による表面的には、「あなたのためを思って」「悪気はないんだから」「私には偏見がないんで」など日本人のいい人を装った「ずるさ」がすごい蔓延っている。(結構強烈に書いた。これはかなり繊細な問題だ。まさに自ら気付けないのが中途発達の特性とか書いてきたけど、これに関しては、マジョリティーを獲得し、定型発達が気付けないずるさについて触れてるわけだ。)

ここまで広範囲になると中途発達、定型発達ほんとみんなで考えようレベルだわさ。

それまた前提として、若い中途発達の子たちに対して「普通の子供達」と一緒に扱おうとした「エゴの罪」は、本当に重い。今回すでに診断認定まで受けていたのなら、その子達が一人暮らしする分にはまさに自己責任だが、シェアハウスに入れる際に大家が知っていたのならば、それを隠して、他の共同生活者に理解求めようともせず、まさに「多めにみなさい」「悪気はないんだから」と賃貸契約者である共同生活人にいうのだから。。。

完全に大家であるこの中年女性の責任である。わけだ。

しかもこの傾向は、この田舎で革新的にシェアハウス運営をしてる関連NPO団体にも同じような傾向がある。

結構、この地域がまじでえぐいだけかも。そして、この子供の利用的な構図が長年の代を重ねる「毒親」の症状そのままだ。
(ちなみに|毒親は特定の人がなるわけではなく、子と自分が他の人間である限りみながなり得る繊細なものである。そして、毒親もその親の毒にやられている連鎖の中にいる)

なるほどね。外部環境から「道理を違える」「言わない嘘」も全然発生してる。

「老人救済」>「自己救済」>「子ども環境の救済」の順の救済がデフォルトだ。
「友人関係」<「仕事関係」<「恋人、家族関係」と難しくなる。

あー、子ども子どもと祭り立てるエリアは、自分がその親たちの歩む寄れない皺寄せを子供を自由にしている、または、子供の育成に力を入れているといいつつ、自分の運営事業にイメージ操作や補助金を引っ張るのに、徐々に徐々に自分の都合のいいように解釈を曲げて自己満足と「事業継続」の名目をもとに「無自覚」にモラル崩壊を引き起こしてる。

大人らしい理由だな。。。
大体の家庭で起きてる無自覚の「毒親」と構造は似ている。子供から「選択肢」を奪ったり「考えを押し付け(あっちがいいよも押し付けになることがある。それだけ繊細)」て思考性を奪ったり、貧困やメンタルの貧しさによる癇癪がないだけマシなだけで、普通の家庭の親が自分も毒親なのかしらと疑うグレーゾーンの「核心」をよく表している。

HSPの記事にいいねいただけたら、ますますHSP研究したいと思います。まだ新しい分野なので。正直生きるのに本業で精一杯なので、みなさまのサポートがあれば追求大いにがんばります。