男と女と夫と妻と東京と田舎と神経と気質
悪い男っていたけど、それはASDだったのか。
なんちゅう問いなのか、失礼必死で書いてみる。
カサンドラはここまできたかと思うけど、私には重要な問いな気がする。
過去を感覚的に考えると「違う」と思う。
そう思えるということはちゃんと「悪い男」の背後には計算された悪意があった気がする。またはあえてのかまってちゃん。
は!ASDにあえてのかまってちゃんがないことに気づいた。
いつも一直線(ズレてはいるんだけど、気持ち的にまっすぐ)。
もっとそうゆう歌舞伎町にいそうんな特殊な人観察しておけばよかった。
「好かれたい」「愛されたい」なかでも、お願いしてやらせると負けがある。言わせずとしても動かす、キャバクラの極意らしい。
癇癪、ヒステリックなど起こしていたら、恋も愛もないわな。
一般的共通で言えるのなら「もういいや」と引いたときに相手が焦るかどうか。(これもASDにはなかなか伝わらなそう)
こんなこと書いてくと、「世の中の人はそうするだろう」から外れるかどうかが医療の専門家でもない私の最終ジャッジラインだよ。
自己完結世界ではどうでもいいが、世間と関わっている間は、「世の中の人はそうするだろう」でいい気がしてきた。
「それも守れないの?」というラインに危うさが確かにあるけど、ASDも真似ることができるし(それが厄介だが)、それができるから社会の仕事に置いて「できてしまえば」ラインがあることで、ある種「平等」が得られている気がしてきた。(ASDの方が優秀な人いっぱいみてるし)
世間の仕事にはコミュニケーションがコミットされてるからめんどいんだよね。東京にはコミュ二ケーションなくても成立する仕事結構あったけど、ここ田舎はもうマストと言っていいかもしれない。
うむ。だから仕事は結構まだなんとかなる。
「男と女と夫と妻」だよな。ADHDの女性とASDの男性の夫婦の話を記事で見た。ASDの父の理解が娘を救ったという内容だった。
やっとだけど父はADHD傾向の強いASDだった。HSS傾向だけなら仲良くんなれる。またASD傾向だけ強い人も仲良くなれる。混合がひどいな。ADHDの多動のせいで、状況を確認(自分が今どこにいるか)がわからないから、扶養する子供を追い詰めるのは容易い。感情的に突き放すのもお手のもの。全部「癇癪」なんだろうな。
そこに行き着く以前に一次障害としての「生きづらさ」があり、自己完結しているか、他者を巻き込んでいるかに分かれる。
巻き込んでほしいなんか闇系の人がなんか東京には多い気がするし、結局、巻き込む=関係が続く=クリエイティブだと東京育ち、東京生まれの私はこの田舎にいて思えてきた。
田舎にも東京にも発達障害はいる。でも、東京の方が積極的な発達障害だ。なんとかしたいという気持ちに溢れている。かたや田舎の発達障害は、コミュニティーで生活できるよう頑張りますとかいいつつ、自分の非に対しては顧みず謝らず、追い出されたとまで居直る傾向も見ている。どちらも状況かもしれないが、発達障害人も二種類あるのが見えてきた。
HSPもこの二種類は大き分かれるが、内向的だから問題になりにくい。
私たちはどこで暮らすかで、その性格性さえ「障害特性からくる言動をその人の性格とされるもの」の方で多大に影響を受けるのではないかと思われてくる。
居心地の良い方を選び、居心地のいい選択をする。まずはそこからかもしれない。その後出てくる対立には話し合いという共感からの抱擁が必要なのだろう。