筋目に伏す
「あ、映画見に行こう」
シャワーの音を聞きながら思いついた。午後の予定はあるけど、何時から彼氏と合流できるかがわからない。ベッドから立ち上がって、メイク道具を取りに荷物が置いてあるソファへ向かう。がちゃり、と、浴室の扉が開いてリュウ君が聞いてきた。
「タオル、どこ?」
「洗面台の下」
答えはしたけど、リュウ君じゃきっとわからない。タオルが入ったカゴへと近づく。私が手を伸ばしたところで彼は気づいたらしい。
「これか」
「うん、取ろうか」
黙って伸ばされているその手にタオルを渡すと、リュウ君は「サンキュー」と言って浴室へ戻って行った。
私の彼氏は何を考えているのかがわからない。その姿に一目惚れした勢いで恋人関係に持ち込んだのは私で、気づけば三年は経っていた。そして今、お互いの話も将来の話もないまま日々を過ごしている。彼について知っているのは、自室でぐうたらする事を最大の贅沢だと思い、いつか出世すると信じて日々勤労をしているという事ぐらい。
「昨日の夜も言ったけどさ」
ホテルを出ても、近場の喫茶店でリュウ君との時間は続いていた。彼は朝食のサンドイッチを食べ終えたところで話しかけてきた。
「うん」
私は私で、トーストの最後のひとかけらを頬張りながら応える。
「彼氏と付き合ってて楽しいの?」
「楽しくないよ」
彼氏と付き合う前からの友人であるリュウ君との会話は、何を言っても許されるような安心感があるから好きだった。
「ふうん。まあそのおかげでこうなったのか」
「そうだね」
信頼している友人だからこそ、こんな風に遊ぶのだけは絶対にしないと決めていたんだけど。それを言うか言うまいかを迷って、隣でコーヒーを飲むリュウ君の横顔を見た。
……やめよう。
彼の誘いにのったとはいえ、それを許したのは私自身だ。
映画の時間が近づいているからと伝えて、喫茶店を出てそのまま別れた。
「ごめん、お待たせ!」
「うん。」
彼氏からの連絡は、間の悪い事に映画のチケットを買った後にやってきた。上映の終了時間から合流できる頃合いを伝えたのに、電車の時間がうまく読めなくて少し遅れてしまった。彼氏はいつもの姿だった。ワックスで立たせた髪型とチェック柄にジーンズを合わせた、原宿を歩いている男子のようなファッション。付き合い始めた頃と、趣味も変わらないまま。
遅い昼食をとる為に、並んで歩く。
「なんの映画見てきたの?」
彼氏から質問されるというのが珍しかった。映画から受けた興奮も思い出して、自分の話に熱がこもる。
「ずっと好きな本が原作の映画!たぶん君は好きじゃない内容だから、今日一人で見ちゃおうと思って!」
「だから髪の毛もまとまってるのか。」
唐突な一言にぎくりとした。そういえば、今朝はホテルから出るから、いつも以上に身だしなみには気を遣った。
「…いや、そういうものじゃないけど…。まぁそれでいいよ」
彼氏はそれきり何も言わなかった。私の外見でのささいな変化に気づいてくれたのは嬉しかったが、そのぶんだけ胸の奥が軋んだ。
彼氏の目的だったショッピングを終え、他に遊ぶ目的もなかったので帰路につく電車へ乗った。
「今夜は、家に誰もいないから」
座席へ座った後に、彼氏がそう言ってきた。だからこの後は外食か店屋物を頼もう、そう言うのかと察知したと同時に、私がこのまま彼氏の家へ遊びに行くと思われている事に気がついた。どくどくと心臓が鳴るような不安感に襲われる。私の身体からは、いつもとは違う匂いがするに違いない。シャワーは浴びたけれど、たぶん、リュウ君の香水の匂いは肌に浸みている。
「今日は、帰る」
「そうなのか」
「そう、家でやりたい事も、あるから」
うん、と頷いて、彼氏は携帯を取り出してゲームを始めた。彼の家へ行かなくなって一ヶ月は経つかもしれない。それでも彼は、私の事を信頼している証かのようにその理由を深く聞かないままだ。会話が途切れたのに、私はひとりでばつが悪くなっていた。もうすぐ、私の降車駅に着く。
「じゃっ、また来週!」
連絡はする。会うかどうかは別として。こんな不義理な言葉を何回言ってきただろう。口数の少ない彼はやっぱり頷くだけだから、より反応がほしくて、彼の右手を軽く繋ぐように取る。わずかに返してくれた指先の動きが、私の心に触れる。いつもどおり、そのまま顔を合わせずに別れる。
ぱきっ
彼の指先の力が、私の渇いた心を割ったような音が耳の奥で鳴った。彼の優しさと信頼を足蹴にした、昨晩の事実が私を責める。何か気づいているのだろうか。何も知らないのだろうか。どちらにしろ、何も言わないだなんて。
呼吸が苦しくなって、階段を下りきった横にある柱へともたれかかる。もう伏して死んで消えていなくなってしまいたい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
地に落ちる水滴とともにうずくまり、吐き続けるように呟いた。