なぜ彼女たちは「かわいいは正義」を叫ぶのか――自撮り・被写体ガールに対する私見
はじめに:私とSNSのざっくりした歴史
昭和末期生まれの私が学生だった頃、まだスマホはなかった。当時の私たちにとっての「携帯」は、今や「ガラケー」と呼ばれている端末だ。テキストを打つ時は、画面に表示されたキーをタッチするのではなく、端末についているボタンをプチプチ押す。当然LINEもないので、友達とのやり取りはテキストメールがほとんどだった。
「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」という言葉が聞かれるようになったのは、私が大学3年生ぐらいの頃だった。この言葉はほぼ、当時の若者から圧倒的な支持を集めた「mixi(ミクシィ)」というSNSとセットで使われていた。友達の登録、直接面識のない友達の友達との交流など、ネットを活用しつつもリアルの人間関係をベースに人脈を広げられるという仕組みは画期的だった。自分のページにはブログを載せることができ、「友達まで公開」「友達の友達まで公開」「全体に公開」などを設定できる。もちろん、人のブログにコメントをすることも可能だ。
発信したいメッセージや見せたい作品があるわけではない一般人が、自分のプライベートをSNSにアップしてコミュニケーションをとるという行動を始めたのは、恐らくこの頃だった。
ただ、私はオンラインでの人との距離感をどうしてよいか分からず、始めて1週間くらいで幽霊部員状態になってしまった。この段階でSNSへの苦手意識が芽生えた結果、私はあまりSNSを使わずに20代を過ごした。日々の出来事を人を傷つけないよう配慮しながら発信する煩わしさを、想像しただけで疲れた。ましてや顔を晒してまで得たい物などない。積極的にアカウントを作り、プライベートを見せる人の気持ちが分からなかった。
SNSなんかやらなくたって本当に仲の良い友達とは途切れずに繋がってるし、別にいいじゃんと思っていた。SNSが人々の生活に浸透している現在の状況も、twitterやInstagramでのトレンドも、全く理解していなかった。
自撮り文化・被写体ガールと出会う
しかし、講談社が主催する新時代のミスコン「ミスiD」(実質は男でも既婚者でもエントリー可能)にハマり、SNSで自分を発信する女の子および一癖ある人々と出会ったことで、それまでSNSに疎かった私も否応なくSNSを始めることになった。そして「自撮り」「被写体ガール」という世界があることを知った。
10代~20代と思しき女の子たちが自らのかわいい姿を写真に収め、それをtwitterやInstagramなどの誰でも閲覧可能な空間にアップし、「いいね」やリツイートやフォロワーの数を増やしたり、人脈を広げたりすることに情熱を傾ける。彼女たちの写真に魅力を感じた人々は、アカウントのフォローや「いいね」やリツイートを通じて応援し、拡散者となる。フォロワーを増やし、芸能関係者やアイドルの運営に見つけてもらえれば、「ツイッターで話題の美少女」みたいな感じで表舞台に立つチャンスが巡ってくることもあるようだ。もちろん、芸能関係者を装った出会い目的の男性に狙われるリスクも生じるわけだが。
自分の顔面をネット上の不特定多数に向けて晒す女の子たちは、それぞれの美意識で写真を用意する。自分のスマホで撮ったナチュラルな自撮り写真、写真加工アプリで美しく整えた自撮り写真、誰かに綺麗に撮ってもらった他撮り写真など、手法は様々だ。
中にはモデルの仕事を受けている「被写体ガール」もおり、撮影会に出たり、SNSを介してフォトグラファー(多くの場合はアマかセミプロ)と直接交渉して撮影に応じたりもする。良いフォトグラファーに恵まれればwin-winの関係が築けるが、フォトグラファーを装った出会い目的の男性もいるため、トラブルに発展することもあるという。
SNSの登場によって、自分の容姿にちょっと自信のある普通の女の子が、空き時間にささやかなモデル・グラビア活動をすることが可能になったのだ。
SNSのない時代なら埋もれていたはずの女の子も、スマホとアカウントさえあれば誰かのアイドルになれるかもしれない時代。現状をそんな風に捉えるなら、平成末期のSNS社会は、より多くの女の子にチャンスを与えてくれる良い時代なのだろう。かわいい女の子の画像に癒されたいと思っている男性ないし美少女愛好家にとっても、無料で見られる女の子の画像がネット上に無数に転がっていて、場合によっては本人を応援したりメッセージをやり取りできる今の状況はありがたいのではないだろうか。
「かわいいは正義」と見た目至上主義
しかし、こういう状況を目の当たりにした私は、何となく嫌だなぁと感じた。「わー、かわいい女の子の写真が一杯ある、やったー!」と思う代わりに、胸がざわついた。この気持ちの正体が分かったのは、彼女たちのツイートに度々登場する「かわいいは正義」という言葉を見た時だった。自撮り・被写体ガールおよびその取り巻きの中に存在する、極端な「見た目至上主義者」に、私は違和感と嫌悪感を覚えた。写真がかわいければかわいいほど、言葉の刺々しさが際立って、こちらの背筋を凍らせるのだ。
彼女たちは、SNSで映える自分でいるためにダイエットしたり、メイクやファッションや画像加工アプリを研究したり、かわいく見えるフォトスポットを探したり、整形したりすることを「努力」と呼ぶ。そういう「努力」の果てに、より多くの人からかわいい・美人と認識され、そうでない人より大切にされることに大きな意味を見出している。そして、こういった「努力」に、自分が使える時間とお金と労力を極限まで注ぎ込む。
一方で、将来付加価値の高い労働に従事できるようスキルを身に付けるとか、視野を広げ想像力を養うために学問や芸術や異文化に触れるとか、自分の考えや美意識を文章や作品にして人に伝えるといった活動には、あまり時間を割いているように見えない。(ツイッターに書かないだけという可能性もあるが…アピールする価値がないという認識?)そんなことを頑張るより、見た目を磨くことを優先すべき、みたいな信念すら感じる。彼女たちの感覚では、勉強などを頑張っていても見た目を美しくすることを怠っている人間は「努力が足りない」のだ。
どんなに知識やスキルがあろうが、どんなに性格が良かろうが、SNSにポートレートをアップしただけでバズる容姿の人間には敵わない。人間性に魅力があったところで、人目を惹く容姿がなければ他人は内面に興味を持ってくれないんだから、中身を磨く努力なんて無駄。結局、世の中、顔と体なんだよ。目に見える価値が全てなんだよ。「中身が大事」とか言ってくる奴いるけど、どうせブスなんでしょ? 悔しかったら見た目良くする努力しろよ。ダイエットしてアイプチしてメイク研究して、それでも駄目なら整形して、「いいね」貰える顔になってから言いな。――自撮り・被写体ガール界隈には、こういう発言がゴロゴロある。
「かわいいは正義」というフレーズは、そんな見た目至上主義、ルッキズムを端的に表しているように思えた。本来なら人を幸せにする手段であるはずの美しさが、人を蹴落とす武器として利用されていることが嫌だった。
女性の価値は見た目がすべてなのか?
確かに、この世には、10人中10人に「美人」「イケメン」と認識される、文句のつけようのない顔が存在する。それを持って生まれた人々は、努力しなくても、沢山の人から好感を持たれる(最初は)。
また、美人が備えているべき身体的特徴はこれだという認識も、何となく社会全体で共有されている。例えば、ぱっちりした二重瞼の目、幅が程よい狭さの高い鼻、目の中心と鼻の頭を結ぶ線が逆正三角形になるようなパーツ配置などだ。その特徴を持っていない女性は、芸能界などの華やかな世界に行くチャンスを与えられにくいという現実もあるだろう。アイドル・タレント業界、キャバクラなどの世界でも、世間の美の基準で上位にいける人の方が、より多くの収入を得られる傾向は恐らくある。
より多くの人からかわいいと言われる女の方が価値があるという発想は、こういう状況を受けて生まれたものだろう。
しかし、そうだとしても、私自身は、何が美しいのかを多数決で決めるような発想には共感できない。
例えば少し目が離れ気味で、世間の基準で言えば美人・美少女には該当しない女の子がいたとしても、どことなく癒されるかわいい顔だなぁと感じる人がいるなら、彼女のかわいさは絶対だと思う。そういう誰かの美の発見と感動に対して「でももっとかわいい子は沢山いる」「その程度じゃトップアイドルにはなれない」「写真をSNSにアップしていいねが100を超えないならかわいいとは言えない」などと横槍を入れるのはナンセンスである。本来、美しさは一人ひとりが自分の感性で見つけるものであって、社会や第三者が押し付けるものではない。
もちろん、芸能人のマネジメントをしている人などは、美しい人間を見たいという人々の要望に応えて対価を得る仕事をする以上、世間の美の基準にのっとって女性の見た目に優劣をつけ、評価の高い人を採用するということをやる必要があるだろう。
しかし、別にそんな立場にない一般人が、美しさで生計を立てているわけでもない人間にまで業界的な美の基準を問答無用で適用し、ネット上で「お前は合格」「こいつは不合格」と一方的にジャッジする現象には疑問しかない。女性を見た瞬間に、日本社会における美のヒエラルキーでどのランクに位置するのかをまず判定し、そのポジション相応のことをしていないと感じたら「ブスが調子に乗ってる」「まず整形しろ」などと叩く。
一体、何様なのか。そんなことをしても、誰も幸せにならないと思うのだが。
また、女性の魅力を、見た目の美醜という基準でしか評価しないというスタンスにも疑問を感じる。
女性の魅力や価値を左右するのは、顔と体だけなのだろうか? もちろん人間の価値をどこに見出すかは個人差があるだろうが、私の場合、今まで魅力的だと感じた女性を思い返してみると決して美人ばかりではない。
もちろん顔の造りが綺麗な人に目が行くのは事実だが、それ以上に、自分の好きなものについて語っている時に表情が生き生きしている人に魅力を感じることが多い。あと、私とのコミュニケーションを楽しんでくれていることが相手の表情から感じられると、この人と仲良くしたい、自分にとって大切かつ価値がある人だ、という気持ちになる。また、地味なビジュアルで顔も無表情で何となく怖かった女性が、現場を分かっていない上司が無駄な作業を指示してきた時に「それはおかしい」と真っ先に発言してくれて(しかも落ち着いたトーンで論理的に)、柔らかさはなくても信念があってかっこいい人だ! と感動したこともある。
もちろん人間の第一印象は容姿に左右されるとしても、しばらく一緒にいることで見えてくる魅力というのも絶対ある。
私は30年超の人生でこういう実感を得てきたため、女性の魅力の有無を見た目だけで判断しようとする人々の感覚が全く理解できない。人を見るなり「美人・イケメン」「普通・そこそこ」「ブス・ブサイク」といった具合にまず分類し、「ブス・ブサイク」は無価値な存在と判断して雑に扱う。こういうスタンスを全面に出したツイートや書き込みを見ると、あなたは人間の魅力や価値というものについて真剣に考えたことがあるんですか? と詰め寄りたくなる。
ぱっと見て本質が分かるほど人間は単純な存在ではない。じっくり向き合う時間を取らずに、一瞬で人間の価値をジャッジするのは短絡的ではないか。関わる人間を見た目だけで選ぶようなやり方で、自分を幸せにしてくれる人や成長させてくれる人と出会えると本気で信じているのだろうか。そんな人との向き合い方をして、人生が豊かになるとは全く思えない。
(ただ、上記のように感じた理由の一つには、私が顔で勝てる人間ではないというコンプレックスもある気はしますが……。心の支えにしている言葉は「美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる」です。)
「かわいいは正義」の裏にある切実さ
しかし、ミスiDに出ている「かわいいは正義」系の女の子たちのSNSを追ううちに、このフレーズに対する私の認識は変わっていった。
攻撃的な発言が目立つ自撮り・被写体ガールのツイートを見ていると、「私はかわいい」「ブスは無価値」という強気な発言に混じって、劣等感や自己嫌悪にまみれた言葉も登場する。
学校に行けない。朝起きれない。バイトが続かない。友達が少ない。特技も得意科目もない。やりたいことがなくて進路が決まらない。会話が苦手。運動が苦手で体育の授業では邪魔者扱い。自分はいつも一番じゃなくて二番。顔がかわいくても結局モテるのは感じのいいブスで辛い……。それ以外にも、不眠やADHDなどによる生き辛さが語られることもある。
(なお、自撮り・被写体ガールの中には、不用意に人を叩く発言をしない穏やかな人もいる。彼女たちは、自分の容姿に一定の自信はありつつも、それを他人を蹴落とす道具として打ち出すのではなく、自分の写真で人を喜ばせることに意識を向けている。少なくともSNS上ではそう見えるように振る舞う。こういうアカウントは安心して見られるので好き。)
ツイートから垣間見えるそれぞれの生活を知るうちに、過激な発言をする自撮り・被写体ガールの中には、社会の中で落ちこぼれのカテゴリーに入れられてしまう人が結構いるのではないか、という気がしてきた(もちろん「ミスiDにエントリーするのはメンヘラが多いから」という説もあるだろうが……)。学校や職場でみんなの中心にいて充実した日々を送りつつルッキズム発言をする、という人はあまり見当たらない。周囲に馴染めない女の子が、教室の片隅や一人の部屋で、ひたすらスマホをいじっている情景が浮かぶのだ。
恐らく、「かわいいは正義」を振りかざす女の子たちは、人間の価値は見た目が全てだと本気で信じているわけではない。
学校などのリアルな世界で輝けなかった女の子が自撮り・被写体ガールの世界に出会い、やっと自分が勝てそうな場所を見つけたと感じたなら、「ここでは絶対に負けたくない」「何としても勝ち上がって、現実の世界で見下してきたやつらを見返してやる」と思うだろう。現実が与えてくれなかった自己肯定感を、SNSに求めるだろう。
こういう女の子が発する「かわいいは正義」の奥にあるのは、「私はこんなにかわいくなれるんだから、価値があるって認めてよ」という悲痛な叫びなのではないか……と思うようになった。単に言葉の意味をそのまま解釈して「それは間違ってる」と否定するのは、的外れなことなのかもしれない。
今では、「かわいいは正義」系の子の「今日は顔が盛れない、死にたい」というツイートを見つけると、少し心が傷む。彼女が生きる喜びを感じる瞬間は、SNSでバズった時だけなのだろうか。自分を肯定してくれる家族や友人や恋人がいるとか、勉強や趣味や部活・サークルなど夢中になれるものがあるなら、顔が盛れなくたって死にたくなったりしないはずだ。彼女たちが「SNSでかわいいと言ってもらえなければ自分は無価値」と自らを追い込んでしまうような環境があるのだろうか。
今日もtwitterやInstagramのタイムライン上に、かわいい女の子の画像が流れてくる。とりあえず「いいね」を押してあげれば、彼女は一瞬、幸せを感じるのかもしれない。でもそういう頑張りの果てに、彼女たちが自分を肯定できる未来はあるのだろうか。
そんなことを考えつつ黙って見ているうちに、次々にアップされる新しい投稿に押し流されて、女の子は画面の下へと滑り落ちてゆくのだった。
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