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「Triangle」と「Talkie」についての妄想

noteではお久しぶりです。
みずこーと申します。

Triangle、めっちゃ良かった〜〜〜〜〜〜
あまり文章を書くことに慣れていないしそういうことをする性ではないのですが、色んな想いがでてきて、感想noteを書いていたのですよ。
でも…感想より考察書く方が楽しい…!ってなっちゃいまして…。
考察ばっかしてて、感想あまり書いてませんが、Triangleめっちゃ良かったし、Talkieとっても好きということだけはまず言っておきます…!

さて、本noteでは、2024年12月1日(日)に白金高輪SELENEb2にて開催されました、『Kolokol Acoustic Theater Live 「Triangle」』(以下、「本公演」)の公演名「Triangle」の意味と、本公演にて初披露された新曲「Talkie」についての妄想を語らせていただきます。

「Talkie」をまだお聴きになっていない方は、先に曲をお聴きいただけたらなと思います。


はじめに

本noteは妄想ということで、公式にはどのような意図があるかなどは全く知らない、根拠もないファンの空想です。こういう見方もあるんだな、という風に見ていただけますと幸いです。
また、読んでいただくと分かるのですが、私は全然結論を考えられていません。「これ、こう考えられるのでは?」「こことここって繋がりあるかも!」といった感じで、全くまとまっていないものとなっております。
ただ色んな可能性を提示しているだけの、中途半端な文章ですが、ご了承下さい。

「Triangle」の意味について

まずは、「triangle」の意味をケンブリッジの英英辞書にて調べてみました。

a flat shape with three straight sides

anything that has three straight sides

https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/triangle

他に掲載されていた意味は、楽器のトライアングル、三角定規、ビリヤードの道具としてのトライアングル(トライアングルラック)でした。連語についても一応確認しましたが、特筆すべきだと思われる意味は掲載されていませんでしたので、省略します。
以上から、『Triangle』は単に三角形と捉えてよさそうです。「Triangle」という英単語であることによって「三角・三角形」以外の意味が付されていることはないと私は判断します。

では、一体どういう三角形なのでしょうか。

①歌・楽器・映像

『Triangle』についての1番最初のKolokol公式の文言です。また、今後の宣伝ツイートでも同様の宣伝の仕方がされています。
「映像と楽器から生まれる未体験のKolokol」という文が共通して用いられ、映像・楽器・それらから生まれる未体験のKolokolという三者により織り成されるライブであることが何度も宣伝されているわけです。
また、本公演は『Kolokol Acoustic Theater Live 「Triangle」』です(ビラやツイートのカタカナではアコースティックライブと表現されていますが…)。つまり、Acoustic/Theater/Liveです。
アコースティックの部分がなく宣伝されることはなく、楽器は重要な要素です。また、アコースティックライブと表現されることはあっても、Theaterも入った方の表現もなされていることから、Theaterも重要な要素でしょう。そして、Kolokolのライブとして、Kolokolの歌が必要不可欠なのは言うまでもありません。

よって、歌・楽器・映像の三者を3つの点として結んだ三角形が、まず1つ描かれるのではないかと、私は思います。

なお、本公演が他のライブと異なる点として舞台セットもメンバーの話で度々挙がりました。ただ、重要ではあっても、構成要素として公式の宣伝で述べられた回数は少なかったので、上述の結論となりました。

もちろん、「Triangle」の意味の考察上このように述べただけで、これは舞台セットは大切ではない、良くなかった、不要という意味では全くございません。本公演の舞台セットはめちゃめちゃ素敵でした…!会場に入った瞬間にKolokolの世界に惹き込まれた感覚がして開演前からワクワクしましたし、公演の臨場感を大いに高める非常に素晴らしかったものでした!!!特に、Bonfireにて焚き火に火が付く演出が感動的…!
本公演を印象深いものにする、必要不可欠な要素であったと思います。関わった方々がいらっしゃるのに、このように申し上げるのが非常に申し訳ないですが、以上のような結論とさせていただきます。

②冬の大三角形


本公演のビラ

本公演のビラ上部の文字の背後には、大きな三角形が描かれています。
また、用いられている画像は、明らかに星が見える夜空です。
そして、本公演は12/1と12月最初の日です。
さて、そうなると「冬の大三角形」が連想されます。

冬の大三角(ふゆのだいさんかく、英語: Winter Triangle)あるいは冬の大三角形[1]とは、(北半球における)冬季に南東空を見上げることで確認ができる恒星のうち、
おおいぬ座α星シリウス
こいぬ座α星プロキオン
オリオン座α星ベテルギウス
の3つの1等星で構成される三角形アステリズムである[2]。形は正三角形に近く、三角形の中を淡い天の川が縦断している。これら3つの星は、地球から見た太陽系外の最も明るい恒星10個の中に入っており、都会の夜空でもよく目立つ。特にベテルギウスはオリオン座の肩の位置にあり簡単に発見できるので、冬の大三角を見つけるのに役立つ。

Wikipediaの「冬の大三角」のページ

wikiではこのように説明されています。

A:「Winter Triangle」

冬の大三角は英語では「Winter Triangle」というそうですので、「Triangle」が指すものとしては、まず一番にはこの意味を考えるのが妥当そう/有力そうです(このことは執筆中に知りまして、これを踏まえるとこの意味を①に持ってくるべきかもと考えましたが、思いついた順としてそのまま②で紹介します)。


B: fairy tale・ Miss Shooting Star・ Bonfire

さて、Kolokolの楽曲の歌詞には度々「星」が登場しますし、「star」と曲名に星を含むのもありますから、Kolokolは星と縁の深いグループといえるでしょう。

公式により投稿された本公演のセットリスト

このセトリについて、1つ見つけたことがあります。
アコースティックパートの曲の内、fairy tale・ Miss Shooting Star・ Bonfireでのみ、星が登場するのです。
偶然か、それとも恣意的にか、3曲です。

なお、「魔法のうた」では、
真夜中落っこちた意識の中で天体観測
幾つもの見逃してきた
流星のような涙揺れていた

とありますが、これは「ような」とあるように比喩ですし、天体観測も実際にはしていないということで、ノーカウントとします。

以下、これら3曲の星にまつわる歌詞の引用です。
「fairy tale」
叫ぶ空怒る海唸る森
僕らのこと許さないってさ
このセカイに来て僕は気づいたよ
闇世の中輝く星が

見上げれば星空
無数のイノチ煌めいて
生きている~Ah

もし願いが叶うなら
あの星空になりたい
流れ星をたくさん流そう
すべての世界の願いを

「Miss Shooting Star」
I want to wish Miss Shooting Star

「Bonfire」
何もいらない
あの場所には
星が煌めく

fairy taleではこのように何度も星が登場します。MSSでは引用した部分以外で曲名の「Miss Shooting Star」が何度も繰り返されますし、そもそも曲名が星です。Bonfireはサビ前で印象深いですし、夜が舞台であることが協調された曲です。

そして、3曲の配置も、1曲目、真ん中のブロックの最後、アコースティックパートの最後です。3つの各ブロックにバラバラになっています。

他に星が登場する曲はKolokolの楽曲の中にありますが(Pale Starなど)、3曲となっていること、そしてこの配置。
もしかしたら、これらの3曲で大三角形「Triangle」を描いているのではないでしょうか。
もっと言うと、この3曲がセトリに組み込まれることが最初に決まって、そこから「Triangle」になったとか…

繰り返しになりますが、私はただのファンですしこれは妄想で、本当はどのような意図なのかは一切分かりませんがね。

B’: Talkie・ Witch・ Starlit

アコースティックパートでは3曲で三角を描きましたが、exパートでは3曲とも「星」が登場しているという評価が可能だと、私は考えます。もしかしたら、これらの3曲でも大三角形「Triangle」を描けるのかもしれません。
もっとも、「魔法のうた」のように、「Talkie」と「Witch」での星の登場の仕方は直接的ではないと評価することもできそうですが…そしてそのためにBもB’も三角形ではないやろ!と批判できそうですが…妄想なので、都合よく解釈するとこうなるということで、ご勘弁下さい。 

以下、同様に星にまつわる歌詞の引用です。
「Talkie」
いつしか重ねる音色
僕らで積み上げ鳴らした和音
まるでモーツァルトみたいだって
輝いた どの星より輝いた

「Witch」
満天の夜
星座のように
どこまでも繋げますように

「Starlit」
星空のライトに照らされた
歌い明かせよ 夜明けまで
※そもそも「starlit」とは「星明りに照らされた、星明りの」という意味の形容詞なので、曲自体が星に関係していると言えるかと思います


C:「都会の夜空でもよく目立つ」

また、wikiの説明の話に戻りますと、冬の大三角を構成する星は「都会の夜空でもよく目立つ」とのことで。
本公演は日々多くのライブが開催される東京という都会で開催されましたが、そんな中でも輝かしい公演となること、またKolokolというグループ自体が輝かしくあってほしいこと。そんな願いを込めることが、「Triangle」という公演名にすることによって可能になるのではないかと、私は考えます。


③物語・語り手・聞き手

「Kolokol」
高橋あきほ、藤本さき、佳凪きの、真嶋このみ からなるアイドルグループ。
囚われることのない様々な世界観を叙情的かつ繊細に歌い上げる。

https://kolokol-official.com/profile/

Kolokolは物語感のある曲を歌う、語り部のような存在ではないでしょうか。
そして、そうすると我々観客は聞き手といえるのではないでしょうか。
語り手には物語と聞き手の両方が必要…なんて考えたり。

このnoteを書き始めた頃はここを1番厚く書きたかったんですけど、どうしてこう考えたのか、理由をあまり膨らませられませんでした。またいつか。


「Talkie」について

さて、次は「Talkie」(以下、かぎ括弧省略)について妄想します。
そしてその手法・観点に①、②…と番号を付けてみました。


①Talkieにトーキーの要素はどこにあるのか、歌詞を見てみる

Talkieについて考えるにあたり、最初にまたwikipediaを参照してみます。
Talkieは「トーキー」のみを指すと考えています。

トーキー(英: talkie)は、映像と音声が同期した映画のこと。

Wikipediaの「トーキー」のページ

トーキーはこのような映画ということで、このトーキーとの関連があるかという観点を中心に、歌詞を一通り見ていきます。

胸の中にはYESもNOもないの
閉じた目を開けるだけさ
迷子みたいな顔するのはもうやめて
1234で飛び出そう さぁ
映画でも見れないような景色を
君に見せてあげるよ

「君」に映画でも見れないような景色を見せてあげるため、「君」を連れ出している情景が思い浮かびます。
映画という単語が出ているのが気になりますね。
映画でも見れないような景色を見せる、とのことで、トーキーを見せるわけではないようです。

君だけの音を並べ奏でよう
それだけで不思議と人は笑えるんだ
君が思うよりその声はずっと美しいから
聴かせてこれからもずっと

この部分の歌詞について、前掲のトーキーのwikipediaを見ていると、気になる記述がありました。

トーキーが映画産業のブームをもたらしている間、当時のハリウッド俳優にとっては雇用上の逆効果を生み出していた。舞台経験のない俳優は突然トーキーに対応できるか否かについて疑問を持たれるようになった。先述したように、訛りがひどい者や容姿と声が合っていない者も無声映画時代にはその欠点を隠せていたが、特に危険な状態に追い込まれた。

前掲のトーキーのwikipediaのページより

トーキーの普及により、無声映画時代には求められていなかった「声」が必要となりました。そして、数々の無声映画時代のスターがそれに伴い声が良くない、不相応だと評価されると、人気を落としたようです。
これを踏まえると、トーキーとある程度は直接的に関連している歌詞といえそうです。

誰も気に留めないような大きさで
飛ばす鼻歌の音色
だけどほんとは誰かに聴いてほしい
世界一小さなコンサート

変わらない音で奏で続けよう
それだけで不思議と
世界は色付くんだ
君が思うよりその手は遠くまで届くから
伸ばしてこれからもずっと

2番の歌詞とトーキーとの関連性は見出せなかったです。この部分の読解についてはこのnoteの公開時点では放置です。気が向いた時に追記しているかもしれないです。

今じゃ当たり前になってることだって
昔はバカにされてた「ありえないこと」って
まだそんなことあるんだろうな
楽しみしかないな

Cメロです。ここも一見トーキーとの関連は見出しにくそうです。しかし、以下のようなwikipediaの記述を踏まえると、もう一歩踏み込むことができそうです。

1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった
__________
映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい[12]。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった[13]

同じく前掲のwikipediaのページより

トーキーは実用化までかなりの時間がかかったようですし、実用化された後も受け入れられるのに多少の壁があったようです。これと関連があると、この部分の歌詞についていえそうですが、普遍的なことを歌っていますし、直接的ではないですね。

以降の歌詞はトーキーにまつわる話との関連性は見出せなかったので、省略です。


②冒頭の音について妄想してみる

妄想を深めるため、歌詞以外に触れるべき要素が1つあります。
Talkieでは1番最初にテープの再生音が聴こえます。

ここから、この曲をかけるためにテープがかかっている=曲自体がトーキーとなっている?と考えられます。
Kolokolによって語られるこの物語が映画として記録され、それを見ているということです。
そして、そう妄想すると、その主語は誰なのか、誰が映画を見ているのか。また、映画を撮ったのは誰なのか、更に以下のように問題となります。
①誰が映画を見ている?
我々(観客・聞き手)、語り手(Kolokol)、「僕」、「君」
②誰が映画を撮っている?
聞き手(観客・我々)、語り手(Kolokol)、「僕」、「君」

これらの問いについて、私は一旦こう答えます。
誰が映画を撮っている?↓
・聞き手は語り手の仲介があることによって初めて物語を知ることができるため、映画を撮る存在ではない。
・語り手は物語に干渉することはできるのだろうか。これまで語り手が物語の現場に存在していたような曲は考えにくいのではないか。現場にいない以上、「僕」と「君」の映画を撮ることはできない。
・「僕」と「君」は対照的な存在ではないか。「僕」は「君」を連れ出し、「その声」を「聴かせてこれからもずっと」と言うなど、積極的な存在です。しかし、「君」が何か働きかけた表現・叙述はないため、消極的な存在と評価できそうです。
以上から、「僕」が映画を撮ったと考えます。

誰が映画を見ている?という問いに対してはまだ答えを出せていません。

ん?いや、ちょっと待てよ、と思う方もいらっしゃると思います。
「トーキーって本当にトーキーなのか?とある状態をトーキーと表現しているのではないか?Talkieだからって曲自体がトーキーだと考えるのは安直ではないか?」と。

私は結論を出せないです。あくまで考え方の1つを提示しているだけなので、これから先は皆さんでお考えいただけたらなと思います。


③Talkieが特別な曲に聴こえる理由を挙げてみる

Talkie、私は以下のような様々な理由で特別な曲に感じます。どうして特別に感じるか、検討してみたので紹介します。

A:現代的な発明の登場・ギミック(他の曲との差異)

Talkieが曲自体トーキーであると考える際の違和感の一つは、これでしょう。Kolokolのこれまでの楽曲に現代的なものはほとんど出てきません。また、この曲のように、曲の冒頭に楽器以外の音がするといったギミックはあまり用いられていません(なお、「The Circus is Coming」の冒頭の音がギミックと言えそうですので、別途語りたいですね)。
そのため、この曲もこれまで通り、曲自体がどうこうといった構造になっているのは考えにくいかもしれません。
そして、他にはあまり無い要素が入ることで特別感が出ているかもしれません。

おまけパートです。「Kolokolのこれまでの楽曲に現代的なものはほとんど出てきません。」この部分についてのメモを残しておきます。情報源はwikiとか色々です。適当に調べてるので、合ってるかどうか、ファクトチェックはご自身で。

ネオンの看板」(「Mr.A」)…1910〜20年代には広告が登場
ブレーメンの音楽隊」(「Starlit」)…グリム童話、第一巻初版発行は1812年
モーツァルト」(「Talkie」)…1756年生まれ
カメラ」「ニュース番組」「テレビ」(「Cheap Lens」)…省略です……Cheap Lensだけ明らかに戦後舞台の明示感があるような…どう扱えばいいんだ…
サーカス」「メリーゴーランド」「ピエロ」(「The Circus is Coming」)…メリーゴーランドは1860〜70年頃に広まる。近代サーカスやピエロは19世紀初頭。

(気が向いた時にこのおまけメモ更新します)


B:「Theater」との関連

トーキー=音声映画ということで、Kolokolの既存曲でモチーフが似た「Theater」(以下カギ括弧省略)について全く触れないわけにはいかないかな、と思います。
「The Circus is coming」は「カーニバル」に続いているということは名言されていますが、それ以外は他の曲同士でペアになるといえる組み合わせは少ないですから、ペアっぽい曲があることは特別なことかもしれません。
なお、Theater=劇場かなと思います。歌詞には舞台台本が出てくるので。

(ところで、触れないわけにはいけないと言いつつ私はTheaterの存在をすっかり忘れていて、上述の部分を書き終わった頃に思い出しました…。そして「やば!Theaterがあるじゃん!」と興奮して色々ツイートしたのですが…よくよく考えたら「The Circus is Coming」と「カーニバル」ほどの繋がりはないのかなと思い直しました…。)

とはいえ、見逃せない存在ではあると思うので、しっかり見ていきましょう。気になる点を3つ考えましたので順に紹介します。

1.最初の歌詞
君に声があるのならば
何を叫ぶのだろうか

ここ、対比の対象がTalkieという音声が重要な要素である映像の形態であることを踏まえると、めっちゃ気になりますね。
君が思うよりその声はずっと美しいから
聴かせてこれからもずっと
と、実際にTalkieでは「君」には声があるどころか美しいといっているので、対照的となっているわけです。片方では「君」に声があって、もう片方はない。
そしてここから、これら2曲の関係性としては以下のような可能性が思いつきました。
①両曲に関連はない。「君」は全くの別人。
②「君」は同一人物であるが、世界線が違う。ある世界線とない世界線。
③「君」は同一人物で、同じ世界線。両曲によって描かれた場面は前後関係にあり、「君」に声がついた。もしくは、あったがなくなった。

Theaterにて「君」は「人形」のようになっています。この点とか他の歌詞も含めて考えると、もっと先に進めそうですが、今回の思索はここでやめておきます。

2.色
Theaterには「クロに塗られた現実」「クロの無い舞台」という歌詞があります。
「クロ」とカタカナであることで、どういう意味があるのか、一体何なのか考察の余地がありますが、「に塗られた」と続くことから色の「黒」の意味を多少なりとも含んでいるかと。
対してTalkieでは、
変わらない音で奏で続けよう
それだけで不思議と
世界は色付くんだ
とあります。
クロに塗られた現実」⇔「世界は色付く」
対照的ですね。

3.メガホン
③Aのパートにて発明がどうこうだと考えてみましたが、Theaterにも発明がでてきます。
僕がメガホンを握って
君と2人で「夢」という名の舞台を繰り返した

「僕」はメガホンを使っているということで、「君」とは対照的に声があることを表していると言えそうです。
そして③Aのパート同様その成立について調べたところ…

「メガホン」という名前が初めて世に現れたのは、1878年に発明王トーマス・エジソン聴覚障害者の為に発明した装置が最初である。エジソンのメガホンは6フィート(約1.8m)の長さと8インチ(約20cm)の直径を持つ音響メガホンが3本並んでおり、中央の音響メガホンは使用者の拡声の為に用いられ、左右の紙製のメガホンは使用者の耳に接続して聴音の為に用いられた。この装置は1000フィート(約300m)離れた場所の話し声が聞こえ、2マイル(約3.2km)先まで発声が届いたと言われるが、余りにも装置が巨大すぎた事から聴覚障害者の補聴器としては普及しなかった[3]

Wikipediaの「メガホン」のページ

映像と同時に音を録音するというアイデアは、映画そのものと同じくらい古くからある。1888年2月27日、先駆的写真家エドワード・マイブリッジトーマス・エジソンの研究所にほど近い場所で講演を行い、この2人の発明家は個人的に会った。マイブリッジは商業映画が誕生する6年前のこのときに、彼の発明したズープラクシスコープの動画とエジソンの蓄音機の技術を組合せ、発声映画を作ることを提案したと後に主張している[2]。合意に達することはなかったが、その1年以内にエジソンは覗き込む方式のキネトスコープを開発し、これに円筒型蓄音機の音楽を組み合わせた興行を行った。

Wikipediaの「トーキー」のページ

メガホンとトーキーの成立にはエジソンの関与という点で共通点があるな~と気づきました。だから何だ、ではあるんですが。

最初の章の「はじめに」で予めご了承いただきましたが、ここから先は、全く考えられていません。
ぜひ、皆さんの見え方も知りたいです。私の方でも、また何か進展があったら追記するかもしれません。


C:その他の曲との関連(「Compass」が特に気になる)

前述したように、他の曲にはない要素があることで、特別な曲と言える理由となるでしょう。しかし、Talkieの面白いところは、同時に、他の曲との関連性が感じられる要素が多い点です。

以下、他のKolokolの曲の歌詞で、Talkieの歌詞との関連性が気になる部分を列挙していきます。(曲名カギ括弧省略)

君だけの音を並べ奏でよう など
Compass 歌ってくれないか
Starlit 明るく楽しい歌を奏で一緒にいこう 

変わらない答えを一つ見つけよう
Witch 答えだけ欲しくて
Pale Star 道標はこの先もきっと変わらない消えない
Compass 何かを掴みたくて 
Rascal 空の色も風の音で夜の声も何も変わらず僕のそばで

海にも潜れた
空も飛べたんだ

Insomnia どこまでも飛べるの
After The Storm だんだん深く潜って
        あの空へ飛んでいけるような自由(つばさ)を求めていた
Until The End 自由に舞う鳥たちが教えてくれた 記憶を空に預けるだけ

(ついでに…)
1234で飛び出そう

千年樹物語 ひふみよいむやなこと
(千年樹の方は1から10まで数えてるし、数えることに関連性を見出すのはどうかと思ったのでおまけです。)


てか、Compassの歌詞見ると全体的に関連性気になりますね
とてもTalkieとの共通することを歌っています
さあ行こうよ 君の手を取るから
とか
もし未来が見えれば 楽しみがなくなるでしょ
うわ~~~気になる~~~
とりあえず今回はやめときます。


D:「僕ら」とKolokol(語り手)の重なり

Kolokolという語り手の存在が、物語の主人公と重なる。
そうすると、歌が「自分事」となるために、聞き手の心に強く残りやすくなる。重なる歌があまりないために、尚更強く。とか、私は考えてみてます。

いつしか重ねる音色
僕らで積み上げ鳴らした和音
まるでモーツァルトみたいだって
輝いた どの星より輝いていた
ここの前半部分は真嶋このみさんのパートですが、このみさんがTriangleにて泣いてしまっていたのが印象的です。
メンバー4人が向かい合うような振付で、手を重ねていた?ような気がします。歌詞とリンクした振付。存在が重なって見えるかも。

海にも潜れた
空も飛べたんだ
さて次はどこで歌おうかな

私は、この歌詞で、5月のワンマン「Beyond the Horizon」の特殊SEにて、海の上を飛んでいるような、世界を駆け抜けているようなパートがあったのを思い出しました。
そして、(文脈的に)ここの主語・主体が「僕ら」となっていて複数形であることも合わさり、日本全国色んな土地で歌ってきた「Kolokol自身」に聴こえるなと、個人的に感じます。

「Fanfare」のように(Fanfareの話もいつかしたいです)、語り手と物語の「僕」が重なりテーマソングのような、特別な立ち位置の曲に聴こえうるようになっているかと。



おわりに

まとまってなくてすみません!!!
読みにくい文章であるに加え、(結論を考えていないので)全然要領を得ない、ふわふわした妄想だったと思います。
あと長すぎ…絶対TriangleとTalkieで分けるべきだった…猛反省しておきます…。
それにもかかわらず、ここまで1万字も(!?)、読んで下さった方、本当にありがとうございます!!!
よろしければ、感想やご意見お待ちしております…!「ここ、自分はこう考えてます」とか、皆さんにとってのKolokolの見え方をぜひ知りたいです!よろしくお願いします!


ご紹介
Kolokolの世界を想うにあたり、ゆささんのnoteをいつも参考にさせていただいておりますので、リンクを勝手ながら貼らせていただきます。
なお、本noteの執筆中は一番下の「Triangle」のnoteを投稿されていたことに私は気づいていなかったので、本noteはそちらとは関係ない私の考えで書かれています。投稿直前にこちらを書いてて気づきました。
読んでみると今回もまた興味深い…。視野が深く、私にはない見方を提示してくださり、大変尊敬しております。


以上です。
それでは、またどこかで。

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