【小説】Earth Flare 1-1

【第二の天使がその鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって,海の中の生き物は全て死んだ。第三の天使がその鉢の中身を川と水の源に注ぐと,水は血になった。そのとき,私は水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ,かつておられた聖なる方,あなたは正しい方であります。このような裁きをしてくださったからです。この者どもは,聖なる者たちと預言者たちの血を流しましたが,あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然のことです。」私はまた,祭壇がこう言うのを聞いた。「然り,全能者である神,主よ,あなたの裁きは正しい。」】 新約聖書 ヨハネによる黙示録16章第3節~同章第7節

第一部 1
 
 大阪北東部。五月の新緑で真っ青な井伊森山を目の前に仰ぐ中学校の校舎。三階北館。三年一組。これが匡の教室だ。座席は黒板に向かって一番左の一番後ろ,つまり,窓際でしかも教卓から一番遠い席になる。
 午後の最初の授業をしている。なぜだろう,脳に酸素が送られている感じがしない。だから授業をおもしろくないと思うのは仕方がない。生物が進化の過程の中で,初めて食事後は眠いと認識したのはいつごろなのだろうか。そんなことを考えながら,匡は窓の外をぼーっと,右手で頬杖をつきながら眺めていた。
 窓の直下,校舎裏の中庭には,いつ見ても枯れているのか生きているのかわからないきたない針葉樹がある。その針葉樹の向こうはしかし,かるく大阪平野が開けて見える。よく晴れて心地良い五月の空の下,井伊森山の麓,校舎の三階にいる匡には,はるか向こうの大阪中心部のビル群が若干の光化学スモッグの中にかすかに見えていた。あのビル群は京橋のあたりだろうか,それとも梅田のあたりだろうか,そんなことを考えて,やはり授業は聞いていない。
「―――さしっ!まさしって!聞いてる!?」無声音で小さいがしかし,はっきりとした声が匡を呼ぶ。その声は隣の席の紫珠のものであった。
「いや,聞いてない。どないしたん?」
「あたってるよ」紫珠は呆れていた。
「うそやん…,どこ?」
「その次の次のページ!」今度はちょっと怒っていた。
「これ?」紫珠が頷いたので,匡はその問題に答えた。
「合っとるけど,ちゃんと授業聞いときなさい」数学科教諭の武井が言う。
「すいません…」そして紫珠に言った。「ありがとう」
 今度はちょっと微笑んだ。

 紫珠は机の上のノートに目を落とし,しかし時々黒板を見ながら,右手のペンで熱心にものを書いている。肩までかかる長さの,まっすぐな髪は,窓からの日差しをうけてほのかに茶色がかり,眉の下まである前髪は,目の上で毛先を少し左に流している。目尻の下がる目はやわらかい印象だがしかし,あまりすきを見せない。目はノートに落としつつ,たまに髪を左手で耳にかける仕草が,匡は好きだ。紫珠は小学校も一緒で,よく一緒に遊んだ。お互いの家にもよく行き来したし,家族同士も仲がいい。何の根拠にもなっていないがそんな紫珠が隣だということの安心感も,この座席に居心地の良さを与え,自分を授業に集中させないでいるのだと,匡は勝手に思っていた。

 一瞬。
 匡は白い火花みたいなのが飛び散ったのを見た。見た,というより,自分の目の中でそれが光ったような気がした。
「花火?」
 ひとりでつぶやくと隣の席の紫珠が匡の方を向いて言った。「なんか言った?」
「いや,独り言」
 それ以上その白い火花は現れず,気にしてもどうしようもなかった。
 そしてまた窓の外を眺めている。日は南中したところから少し傾いていた。
 やわらかく風が吹いている。
 窓に半分だけかかったカーテンは静かに揺れる。
 床でその影が閉塞前線のように,静かに,
 前進したり,
 後退したりする。
 もうすぐ梅雨が来ることを,
 匡は思い出す。
 机の上に放り出された数学の教科書は,
 パラパラと,
 しかし音をたてずにめくれる。
 そして新しいページにまた日の光があたる。
 光は,暖かく,心地いい。
 このまま眠ってしまいたい。
 遠くで飛行機が飛んでいるのが見える。
 踏み切りの警告音。
 この学校は線路の真ん前に立っていることを思い出す。
 誰かが中庭で,
 車のエンジンをかける音。

 視界を教室に戻した。紫珠は,熱心にノートをとっている。匡はその姿を見るのが,妙に安心する。
「だからこれを公式にすると,円錐でポイントになるのはまず,底面の円の円周,円周がわからなくても半径がわかれば円周もわかるわけでありますから,えぇとりあえず円周がわかればいいわけで―――」
 武井が授業を続けている。
「―――円周がわかれば何がわかるのか,ええと扇形の面積が―――」
 わかるわけであります―――。匡は無音で思い切りでかいあくびをした。
「―――円錐を展開すると,展開というのは立体を開いて平面的に表すことであって,その展開したあとの扇形の面積が―――」
 わかるわけであります―――。天井の近くで,教室に迷い込んだ蜂がいそがしそうに出口を探している。
「―――なぜわかるのか,それは扇形の縁,すなわち弧はもともと,もともとというのは展開する前の―――」
 ことでありますけれども―――,
「―――これは底面の円の円周とぴったりくっついていたからで―――」
 あります―――。いいなあ,蜂は出口を見つけたらこの教室から出て行ってもだれも咎めない,と匡は思う。
「―――すると扇形の面積はそれと同じ半径の円の面積かけるその円の円周分の扇形の円周をしたらいいわけで―――」
 武井が膝から崩れて,倒れた。
 教室の生徒が,
 机の上に頭をぶつけたり,
 椅子から落ちて床に転がった。
 全員だった。

 また一瞬。
 白い火花が目の中で燃え散る。

 窓の下で,
 車が何かにぶつかる,
 鈍い音がする。

 頭が痛い。

 目の中の白い火花は,
 いつまでも落ちない線香花火のように光り続けていた。

 視界が狭くなってくる。
 立ちくらみのような,
 朦朧とした感じ。
 意識が遠のいていく。

 紫珠はもう眠っていた。
 眠ってしまいたい。
 しかし目が覚めたとき,
 この目を通して何かを認識し,思考するのは,
 今の自分と同じ自分なのだろうか。

 同個体の意識は連続していると,
 一個体に一つの意識しかないと,
 誰が決めたのだろう。
 眠っても必ず目が覚めると,
 なにを根拠にそう信じ,
 人は眠るのだろう。

 狭くなっていく視界の端で,さっき見ていた飛行機が遠くのビルの上に,真っ逆さまに落ちていっていた。

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