滝野川稲荷湯と小沢健二「LIFE再現ライブ」と滝野川浴場のこと(その2)
2024年8月31日。小沢健二の「LIFE再現ライブ」にて「リアルタイムで『LIFE』味わってない問題」から解放されたと書いた。
しかし、もうひとつ「LIFE」についての問題を私は抱えていた。
「『LIFE』何にも結びついてない問題」である。
武道館を出て、駅へと向かう道。周りの人たちの充実しすぎた表情を見て思ったのだ。私は彼や彼女と同じくらいに楽しみ、想い、泣けたのかと。
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「LIFE」30周年ということで、著名人もそうでない人も、そのアルバムについて話したり書いたりしていた。
そして、それらの言葉に触れ、多くの人にとって「LIFE」は「何か」に結びついていると知った。
「何か」とは。
例えば、あの頃に付き合っていた恋人。
例えば、あの頃に乗っていた車。
例えば、あの頃に勤めていた会社。
例えば、あの頃に世を包んでいた空気。
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一緒にそのライブへと行った少し年上の友人は
「中学に入ったら友達が全然できなくて、ひとりの部屋でずっと『LIFE』を聴いていたのを思い出す」
といっていた。やはり彼女の「LIFE」も、あの頃の「何か」とリンクしていた。
そんなダークな思い出を引っさげてライブへ行ったら、彼女は血を吐きながら白目を剥いて倒れるんじゃないかと心配していたが、時は流れ傷は消えていったのか、心のベスト10 第一位はこんな曲だったといわんばかりに楽しんでいた。よかった。
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一方、私の「LIFE」は一切の思い出に紐づいていない。「LIFE」はただひたすらに「LIFE」だ。思い出す恋人も車も会社もない。
「LIFE」が私に想起させるのは、東京タワーをすぎる急カーブや、誰かにとって特別だった君でしかない。「LIFE」は「LIFE」だ。
それでもしつこく考える。私にとっての「LIFE」とは。何かであってほしい。
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しかし、いくら考えても「何か」ではない。私にとっての「LIFE」はただ「LIFE」である。
何とか絞り出した言葉を並べるなら、私の「LIFE」は、ごっさファンキーなディスコソングスだ。「低音太い!イェイ!」である。
もちろん、その時々で歌詞のフレーズに胸を痛めることもなくはない。しかし、それでも「イェイ!」が勝る。
故に「いちょう並木のセレナーデ」と「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」はよく飛ばしていた。申し訳ない。
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武道館を出て、駅へと向かう道。周りの人たちの充実しすぎた表情を見て思ったのだ。私は彼や彼女と同じくらいにライブを楽しみ、想い、泣けたのかと。
結びつく「何か」がないために、私は彼や彼女ほど「LIFE」を大切にできていないのかもしれない。
だとしたら、それは、とても、哀しい。
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宿へと戻る道中、滝野川浴場にお邪魔した。
その湯は岩や木をふんだんに使っていて、高級旅館の浴場を彷彿とさせた。
もちろん高級旅館に行ったことはないので想像の域を出ないが、いつかお金持ちになってC級グラビアアイドル(インスタで筋トレ動画とオシャレサラダを頻繁にアップ。後に検挙)との不倫旅行で利用したいとは思っている。
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洗い場の一角には池があり、スイスイと金魚が泳いでいた。
庭ではない。洗い場だ。一角と書いたが、割と真ん中だった。
洗い場の池に泳ぐ金魚。その衝撃たるや。
全日マットにハンセンが登場したときより、フィーゴがマドリーに移籍したときより、吉野公佳がMUTEKIからデビューしたときより、衝撃だった。
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(うっかりシャンプーとか入っちゃったら大惨事じゃね?)
(そもそも温度とかアレじゃねーの?)
勝手に心配する私を笑うように、金魚は優雅に泳いでいた。目の前で、元気に泳いでいた。
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洗い場に池を作ってはいけません、という決まりは確かにない。
そして私の勝手な心配は、現にスイスイと泳ぐ金魚が消し去った。
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「LIFE」は「何か」と結びついてなくてはいけません、という決まりは確かにない。
そして「私は彼や彼女と同じくらいにライブを楽しみ、想い、泣けたのか」という勝手な心配は、現にロッカーへと放り込んだTシャツが吸った汗と、胸の「LIFE」という文字が消し去った。
言い訳は用意するのに、替えのTシャツを用意していなかった自分のことは少し恨んだ。
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LOVELY LOVELY WAY,CAN'T YOU SEE THE WAY?IT'S A