見出し画像

史上最も危険な航空機4

ロシアの戦争でベトナム空軍に部品が入りづらくなっているのでしょうか、昨年のSu-22墜落に続き、先日はDak Lak省で軍用機のYak130が墜落しました。
パイロットの証言では「技術的な問題に遭遇。着陸装置が解除できず、緊急措置も効かなかった」ということで、故障が重なった事が原因のようです。

昨年のSu22の事故も故障だったそうですが、幸いパイロットは緊急脱出で生存しているそうです。ちなみにこの青い飛行機は軍用併用なダナン空港滑走路で見ることができます。


世界の危ない航空機列伝

経済制裁を受けているロシア国内の航空機のトラブルのニュースも戦争が始まってから何度か報道されていますし、以前はダナンでよく見たSu22の練習も最近は殆ど見なくなっています。ロシア機を使う国々は大丈夫なんでしょうか。。。気になってロシアの航空機は大丈夫なのか?…と調べましたがはっきりとした事はわかりませんでした。戦争中だし、そりゃそうか(笑

かわりに別のランキングを発見、ベトナムと日本関係が上位だったのでついでに noteしておくことにしました。

ちなみに自分が肉眼で見てヤバそうと思った飛行機といえばこちら。壊れてるのかと思ったらこういう形でした(汗

多分スホーイT-4. モニノの中央区空博物館にて

誰が調べているのか、危ない飛行機・失敗作のランキングというのがあるそうで、ワースト10に旅客機では

  • Tupolev / Tu-104

  • de Havilland / Comet

  • Latécoère 631

がランクイン。大昔&どこのだよ!っていうのばかりでこれらは退役済み。2024年の民間の空は現在は安心安全そうです。というわけでヤバイ軍用機をご紹介。それでは4位から!


4位  ヴォート/ F-8 クルセイダー

え、十字軍?あ、当時は侵略してたんだからまぁ、、、。名前からして現代では「ピー」ってなるやつ。(笑

「クルセイダーは扱いにくい機体で、着陸の際にはそれが痛々しく明らかになりました。これは空母機としては最悪の特性です。恐ろしいことに合計 493 名のクルセイダー パイロットが射出座席から機内から脱出しなければなりませんでした。」 ついたあだ名は「少尉排除機」。パイロットは少尉さんが多いんですな。

ヒャホー!とか言わなかったでしょうね、絶対

製造された 1,261 機のクルセイダーのうち 517 機が失われ 41% という損失率を記録。 航空安全ネットワーク データベースに 737 件のエントリがあり、一説には1,261のうち、退役までに1,106が事故に巻き込まれたといいます。ダメじゃないですか(汗


3位 スーパーマリン / シミター

イギリスの航空機メーカー、スーパーマリン社が開発し、イギリス海軍が使用した艦上戦闘攻撃機で生産数は76機。

シミターは油圧故障により 9 機、エンジン故障により 5 機、鳥との衝突、燃料漏れ、地形への制御飛行によりそれぞれ 2 機ずつ損失を被りました。原因不明の損失も 7 機ありました。

イギリス製の飛行機、組み立て途中でお茶休憩とかしてそうで怖いです

「珍しいことに、生き残ったシミター3機のうち2機は、1964年4月に第807飛行隊が極東から帰還中、マルタ上空で空中衝突に巻き込まれた。製造されたシミター76機のうち、39機が事故で失われは損失率は51%である。 これらはすべて基本的に平時のことであり、シミターが戦争に最も近づいたのは、1961年にイラクのクウェート侵攻を阻止したときだった。」
ホボ練習中にやらかしたってことなんでしょうね。平和で良かった。


2位 Republic / F-105 サンダーチーフ

戦術核爆弾を投下するために開発されたいわく付きの航空機。

ベトナム戦争の最初の4年間で北ベトナムへの爆撃攻撃の75%はF-105によるものだった。本機を特徴づける機体内の爆弾倉は戦術核専用であり通常爆弾の運用には適さず、爆装は外装で行われ、爆弾倉は燃料タンクの収納スペースとして用いられた。

wikipedia

燃料タンクを内蔵しちゃうと、いざっていうときにタンクを投下できなくてつらそうですが。。。乗っている人たちはどう思っていたのか。

ベトナムの戦争記念公園で見た爆撃跡を思い出します

「サンダーチーフの改造が必要な過剰な熱と湿気のほかに、水平安定板を制御する単一の油圧システムがすぐに弱点として浮上しました。 システムが損傷すると、航空機は回復不能な急降下を強いられることになる。F-105はまた、北ベトナムの防空網(主に砲)に驚くべき速度で落下していた。 1965年には少なくとも60、1966年には111、1967年にはさらに97機が失われた。

損失のうち334機のサンダーチーフはすべてベトナム上空での戦闘でアメリカ空軍の損失の約20%、生産された全F-105の40%を失った。戦争という状況においても、第二次世界大戦中の航空機の損失率と比較すると、これはひどいものでした。さらに 63機が東南アジアでの事故で失われ、その他の損失を含めると、生産されたサンダーチーフ全体の 50% をはるかに超えました。」

戦闘爆撃機なので戦闘機と戦うときには爆弾を捨てて戦い、旧式MiG-17は撃墜できたものの新型のMiG-21の撃墜記録はないそうです。
ダメダメ君のエピソードとして、途中からはF-104が護衛として配備されたのだとか。

最後は練習用の標的として利用されたそうで…

ちなみにF104は子供の頃にサイタマで飛んでいるのを見たことがあります。ウルトラ警備隊っぽいくて、かっこよかったなぁ。


1位 横須賀海軍航空技術廠 / 桜花

1位は社会学者ユヴァル・ノア・ハラリが「世界初の誘導ミサイルは日本で開発された」と揶揄した桜花でした。残念。
頭の悪いリーダーが計画するとどんなに優れた技術や良い技術者がいても死亡率100%の航空機を製造できてしまうという、航空機史の汚点ともいえる「徒花」です。命名は見事に花つながり、そこしか加点要素がありません。当時の日本は道路が未整備で舗装路はごくわずかだったので開発とテストにはさまざまな苦労があったのだとか。実態は後進国なのに根性で飛行機開発してたそうで、計画性のない指導層には勿体無い技術者たちだった事が想像されます。

 桜花は自力で離陸航行できないため、運ぶ航空機や護衛機が必要で、こちらも大量に撃墜されて本体以上に犠牲を増やしています。
米軍のコードネームは侮蔑を込めて「Baka Bomb」もしくは単に「Baka」だったとか。

「大日本帝国海軍の横須賀工廠で製造されたMXY-7桜花自爆爆弾は、長さ20フィートの筒型で短翼が付いていた。運命のパイロットは、1200kgの弾頭と推力4500ポンドのロケットモーターの間に挟まれていた。驚いたことに、コックピット後部にはパイロットを保護するための装甲板がありました。

桜花は時速 800 マイルを超える最高速度にもかかわらず、期待されていたほど効果的な武器ではありませんでした。改造戦闘機による神風攻撃は限定的な成功を収めたが、MXY-7 にはアキレス腱があった。航続距離が限られているため、改造された G4M 一式陸上攻撃機爆撃機で目標まで運ぶ必要がありました。」

こういうアニメみたいなことをほんとにやりますよね、日本。てかアニメが真似したのか…

全重量2,270 kgの桜花は一式陸攻の搭載量を遥かに超過しており、飛行性能の低下をもたらした。航続距離は30パーセント減、巡航速度は170ノット(314 km/h)で約10パーセント減、さらに運動性能の低下が著しかった。
そのため軍令部は、一式陸攻に強力な援護戦闘機を付ける必要性を感じ、桜花を搭載した一式陸攻の4倍の護衛戦闘機を付ける計画であったが[32]、1945年3月18日の九州沖航空戦での桜花の初陣では、野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(編隊長機3機は桜花未搭載)に対して、最終的に随伴できた護衛機の零戦は32機にしか過ぎず、護衛機を蹴散らしたF6Fヘルキャットに桜花を搭載して退避もままならない一式陸攻は次々と撃墜されて全滅している。

wikipedia

発案者は終戦後に逃亡してその後も正体を隠して3人の子をもうけ生きながらえた。柳田邦男曰く、「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂でしかなかったのかも知れない」

醜い飛行機の特集はこちら。いろんな事を発信してる人がいますね😅


ベトナムとも関係がある日本軍

ちなみに、日本は太平洋戦争でベトナムに進駐、ドイツがフランスに勝利し傀儡政権を樹立したあとだったため、先に駐留支配していたフランス軍と共同統治、という形でベトナムへ進軍・駐留しました。終戦近くに日本がベトナムに傀儡政権を建てようとしていたこともあり、現在のベトナムはフランスからではなく「日本支配」から独立した、というのがベトナム政府の公式な考えだと思います。(そのあとフランスアメリカが再駐留して冷戦代理戦争になったので影は薄いだけ)

有名なホーチミン市のタンソンニャット国際空港も日本軍が使用していて、他にも軍用の滑走路を整備していました。しかしなぜか活用されていません。

地図で見ると、規模が小さすぎるのかもしれません

また、現地で日本軍が資源徴用をおこなったり阻止するべく英軍が爆撃したりで食糧不足となり、百万人規模の飢饉が起きています。

第二次世界大戦は、軍事的に多大な犠牲をもたらした戦争と結び付けられることが多いが、その戦争が生活に必要な物資や資源の流れを変え、栄養失調、飢餓、関連する病気で何百万人もの命を奪ったことは、ほとんどの人が思い浮かべない。第二次世界大戦の飢饉の中でも、ベトナム大飢饉(1944~1945年)は、特に同時代のベンガル、河南、ソ連と比べると、ベトナム国外ではほとんど知られていない。

pacificatrocities

https://www.pacificatrocities.org/the-portents-of-famine.html

(12/8に公開予定でしたが忙しくなってしまい遅れました。申し訳ございません)

いいなと思ったら応援しよう!

そんちゃー君
サポートありがとうございます😊 ベトナムにお越しの際はお声がけくださいね🌻