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The Social Dilemma

ネットフリックスのドキュメンタリー映画「監視資本主義:デジタル社会がもたらす光と影」(原題:The Social Dilemma)を見たのでそれについて感じたことを残しておきます。


テクノロジーによる二極化

最近、多くの学者や、知識人たちがここぞとばかりに、分断という言葉を使うのを見て聞いて、どうしてかわからないけれど腑に落ちない自分がいたわけです。
本当になんとなくだけど、納得できないというか、自分はそこには関わっていない、私には関係がないという程で何を言ってるんだろう。的なひねくれた思いだったのかもしれないですが。

このドキュメンタリーは、そのような認識を改めさせるには十分なものだったと思います。

このドキュメンタリー映画の中で説明されているのは、テクノロジーの発展による負の部分であり、普段テクノロジーの恩恵を存分に受け、良い面しか意識していない人たちにとっては耳が痛いような、受け取りたくないような情報かもしれないけれど、おそらくこれから死ぬまでテクノロジーと付き合い続けていくであろう私たちは、その負の面を熟知しておくべきであるだろうし、深く考える必要があるように思います。

さらにこの負の部分を受け入れる、自分にとって都合の悪い情報をフラットに受け止め、考えるという行為は、テクノロジーによる思考の二極化、ある意味でこれは主観のみで善悪を決定づける行為、を避けるための準備でもあり、このドキュメンタリー映画が伝える主の部分ではないかと個人的に感じました。

まずここで私が考える二極化とは、多くの場合初期値としての自分ではコントロールできない、貧富によるものでも、人種によるものでも、文化資本によるものでもなく、ある程度は自分自身でコントロールできるはずだと信じられている、情報の取捨選択であったり、時間というリソースの使い方によって起こる思考の固定化と、主観による善悪の決定、それによる対立を意味している。

「アルゴリズムは人の欲しいものを与えない。」

という言葉が出てくるが、テクノロジーが提示する情報を、なんの思考なしに頭に入れた人間は、自身の持つ意見を肯定する情報、似た意見をどんどん取り入れることにより、思考が固定されていく。

それぞれがそれぞれの思考を固定させることで、思考の偏りが生まれ、さらに自身の意見への肯定的情報を継続的に取り入れる行為は、その意見を否定する情報や意見を拒み、時に蔑むことにすら発展する。

その積み重ねは、自分の意見を世間の常識であると錯覚させ、さらに進むと、自分の意見が善であり、それ以外は悪であるとなる。

少し行きすぎた考えかもしれないが、テクノロジーがここまでの進化を遂げる以前から、自身の考えを絶対の正義であると考える人はある一定数存在していた。
という事実を、実生活での些細な生活からであれ、社会的問題として取り上げられるような大きな問題からであれ、感じたことがある人は多いのではないかと思う。

そのようなサイクルを大衆化することが、テクノロジーの発展が持つ負の面の1つではないだろうか。とこのドキュメンタリー映画は訴えかけてくる。ように私は感じる。

昔人間の脳内でいくつかの感情が人の行動を決定している、的なアニメ映画を見たことがあったことをふと思い出したが、その感情の部分が、アルゴリズムに取って代わったというような表現を、この映画の中で見ることができたのは少し複雑だったように思う。


原因のなすりつけ

テクノロジーによる問題のみではなく、いくつかの問題で根本的な原因をなすりつけているのではないか、と思うことがある。

このドキュメンタリー映画の主題でもある、テクノロジーの発展による監視社会の形成や、思考の二極化はもちろんのこと、環境面では海洋プラスチックの問題であったり、地球温暖化に伴う脱炭素であったり、どれをとっても問題はテクノロジーではなく、プラスチックではなく、二酸化炭素でもなく、人間にある。


別に何かに水を差したい訳ではなく、その事実から目をそらすような政策であったり、極端な思考を持つことは良くないのではないかと。
もちろん、小さいことからコツコツ始めるのはどのようなことであっても大切だろうけれど、その小さいことばかりコツコツするだけで、表面上なんとなくやっている感を出し、根本的問題を見つめる機会を先延ばしにすることに関しては、現実逃避以外のなんでもない。

ということを自分自身に言い聞かせたいと思う。これは何も、人が1人頑張って解決できないような大きな問題にのみ当てはまることではなく、日々の小さな出来事に対しても行われていることである。

それはよく言われるような「他責か自責か」という小さなものでもあり、自分がこれからどのような人間になりたいかを考えた時に、原因は私自身、内側にあるのではなく、周囲の環境、外側にあると考えるか否かである。

ここで一概にどちらが良いのかを考えるのは、全くもって無駄なことだと思う。
問題は自分自身がどのような人間になりたいと考えるかで、これからどのように生きていくのかという、内側にある問題だと私は考えるからで、それは他人の影響があるとはいえ、最後は自分自身で決めないといけないことじゃないかと、そう思うわけですね。

ほんの少しでも自分の理想とするものに近づきたいわけです。



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