A Single Man
世界的に有名なファッションデザイナーであるトム・フォード監督の初監督映画『A Single Man』(放題:シングルマン)を見て2つほど感じたことを残しておこうと思います。
マイノリティーとマジョリティー
マイノリティーとはマジョリティーがそこに脅威を感じるものだ。という趣旨の言葉がこの映画の中で出てくるのですが、要するにマイノリティーの本質は、数ではなく脅威であると。人々がある物事に対し脅威を持ち、そこに該当する人々をマイノリティーであると定義づけているのだと、私はその言葉から解釈しました。
この理解が正しければマイノリティーとは社会的少数者という意味ではなく、割合関係なく、ある一定の人が理解できない事象に該当する人々への、差別的な言葉であると取ることもできるのではないかとこの映画を見ていて感じたことが一番印象的だった。
それと同時に多数決でいくつかの大事な物事が決まる民主主義社会で、少数派が淘汰されるのはなんとなくイメージがつくけれど、そうでなく圧倒的な少数の意見で物事が決まる社会で、マイノリティーとマジョリティーは成立するのかと考えた時に、そう思えばほとんどの企業は少数が多数をある意味で縛っているのではないか思ったのがもう1つ。
ほとんどの企業は社長(会社の中でたった1人)ないし少数の役員などが、その他社員(多くの労働者)の動向を決定することが可能だったりするけれど、その会社の中で少数派である社長が多数の労働者に淘汰されることは少ない。
労働ストライキなどもあるので全くないとは言えないが、それでも世の中に多数の企業があるのに比べその数は圧倒的に少ない。
だから何ってことはないが、マイノリティーとマジョリティーはそこに所属する数に対して分けられるのではない。ということを考えるための1つの例くらいにはなる。
社長と労働者、同性愛者と異性愛者、その2つの組み合わせだけでみると数は全く関係がなく、あるのはステータスの違い、一人称ではない誰かに対する心の持ちよう、羨ましがられるか、奇妙がられるかの違いでしかないような気がしてしまい、少数派であるがゆえに尊敬される人と、淘汰される人がいるという事実は割と見過ごされている部分ではないかなと思ったりもします。
少数派であるが故に価値を見出される人と、虐げられる人がいるという事実は、いかに人が見せかけの社会的ステータスに縛られているのかを表しているように感じます。
さらにそれらステータスの基準は資本主義的に価値があるかないかではないかなと。そうだとしたらこれほど馬鹿らしいことがあるのかなと、個人的にこの映画を見て思ったわけです。
年齢と経験
この映画の終盤、主人公とある学生の会話の中で「年齢を重ねるごとに人は愚かになるが、それは経験が無駄であると言うことではない」という趣旨の発言があり、オルダス・ハクスリーの「経験とはその出来事で何を得たかだ」たる言葉もその映画の中で引用されていて、自分の中で年齢と経験について再度考えるきっかけとなりました。
年齢を重ねることと経験を積むことは同意味ではない。
何も得ていなければそれを経験とは呼ばない。
私含め、いまだに多くの人の中に年功序列という考えが根付いている社会で、これらの言葉はかなり強いインパクトを持ち、自身の考えを変えるきっかけになるのではないかなと思ったりもします。
日本でどれだけ年功序列的考えが根付いているのかはさておき、他国では割と年齢と経験については意識されている部分なのかなと思うことがあります。
初めてそれについて意識したのは、リーバイスのある広告を偶然目にした時でした。
「AGE DOESN'T IMPROVE EVERYTHING.」
とだらしない格好をした初老の男女2人の写真とともに書かれていたものなのですが、その広告を見たとき大きな衝撃を受けたのを今でも覚えています。
確か1990年代のもので、私はそれをリアルタイムで目にしたわけではありませんし、広告なんて普段嫌という程目にしているわけですから、今でもそれが記憶に残っているということは相当印象的だったのだと思います。
これは私のいる環境がそうであるだけなのか、少なくとも日本では、三歳の翁百歳の童子よりも、亀の甲より年の劫を無条件で尊重しているような気がします。
そのほかの国に関しては定かではないですが。なんとなくそう感じるわけです。
そんな感覚の中で、このリーバイスの広告を見たらいくら人が年齢を尊重しようと、それはただの数字でしかないんだ。とそこに甘んじるなと、ビジュアルも相まって意識させられるしかなかったわけです。
年齢は尊重するに値する要素であり、それ以上でも以下でもない。
何もしなくても年齢は積み上がるが、何もしなければ経験は積み上がらない。
これは自分自身にもしっかりと刻み込まないといけない言葉であると思います。
百聞は一見に如かず。の百聞を9回やってみても、一見を10回繰り返した人には敵わない。かもしれない。
そんな感じでこれから生きていきたいな、とか思うわけでした。