思考が欠けていく
知識を蓄えることで思考の幅を増やしたいな、という思いが昔からあったのですが、知識を蓄える行為のせいで、考える習慣がなくなってしまっているのではないかと感じることがあったのでそれについて残しておきます。
学者さんや知識人の講演会を聞いたり、コラムや書籍を読んだりしていると、自分では考えつかない最もな意見がつらつら並び、たくさんの知識と経験から生まれた知識に感心し、自分もそう思われる側の人間になりたいとな、と漫然に思ったりするわけです。
そのような考えになると、やはり何かしらを学ぶモチベーションにもなるし、結果的に継続して物事を続けることもできたりと良いことが多い。
ただその反面、知識を増やすことを意識しすぎて思考がおざなりになってしまうこともあるなと思うことが割と多かったりする。
自分の好きな学者の発言や考えを肯定し、受け入れる。当然それらの中に受け入れられない意見もあったりするわけだけれど、全く知らない分野だと反対意見を持つことは予想以上に難しかったりもする。
これは結構怖いことじゃないかなと思っていて、いくら贔屓にしている人の意見であっても、おかしいと思う部分にはしっかりと否定できる態度を保ちたいと思う。
意見を丸々受け入れるわけではなく、聞き入れてから受けいれるまでに、一度しっかりと自分の思考を挟まないといけないという意味で、たまにそのとても大事な一手間が欠けている自分がいることに気づく。
そうなってくると、どうして自分が知識を蓄えるのか、という前提が無視されるわけで、それについて考えだすと少し焦ったりする。
でも良く考えたら、そのようなことに気がついて、自分の中でしっかりと考える時間を作れることが、自分の長所ではないかなというポジティブな考えも出てくるわけですね。
昔から考えても意味がないかもしれないことを考えるのが好きで、その遊びをより楽しくするためにできるだけ多くのことを経験して、知識を蓄えようと怠けつつも心がけてきたわけだけど、話がまとまらないまま、適当にゆるく、いろいろなことを考えていきたいなと思いますね。
これからもずっと。
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