境界を越えるバス/都県境編19/常矢橋・馬場橋・高橋
東京神奈川都県境 境川編その5
2024年8月・10月調査実施
2024/11/21 初版暫定公開
データ類は特記なき限り2024年11月時点のものです。
図表・画像類は特記なき限り筆者自ら作成・撮影したものです。
今回は淵野辺駅東口を発着して境川を越える路線の後半です。ただし、橋の所在は、駅からは道程で2~3km離れた地点になります。対象となるバス路線は2つですが、そのうち1つは往路と復路で別な橋を渡るため、橋は3本となっています。
橋の場所と概要
今回紹介する橋は、一番下流側の常矢橋が、前記事で紹介した宮前橋の上流側約1400mのところに架かっている。馬場橋がその上流約700m、高橋がさらに上流約300mの地点になる。この辺りからだと、JR横浜線の最寄り駅は矢部駅になる。
上の図は、今回紹介する3つの橋と、前回記事で紹介した橋やJRの駅との位置関係を示した地図である。今回の橋は赤文字/前回記事の橋(根岸橋・山根橋・宮前橋)は青文字で記載した。バス路線は、今回の記事で紹介する分のみ記入してある。
常矢橋は、東京都町田市常盤町と神奈川県相模原市中央区上矢部2丁目の間に架かっている。通っている道は、町田市道/相模原市道で、片側1車線だが歩道もありそこそこ広い道である。常盤と矢部の間に架かっているので常矢橋という名前になったらしく、読み方も「ときやばし」である。市道であるためか、付近には都県境を示すロードサインはない。
常矢橋の相模原市側の市道は、道なりに進むと途中で緩やかに左方向に曲がって淵野辺駅に至る。ここを曲がらずに真っ直ぐに進む道に入ると、米軍相模原補給廠の縁に沿って進み、矢部駅に至る。
歴代地形図によれば、この橋は現在地のほんの少し下流側に明治期からかかっており、大正期には前後も含めて車両の通ることができる道として整備されている。現在の位置に架けかえられた平成中期以降と推定され、町田市側には旧道が残る。相模原市側は、現在の上矢部2丁目と5丁目の境界に旧道が存在したと思われ、長さはごく短い。橋の上流側で都県境が境川左岸に食い込んでいるエリアがあるように書かれている地図もあるが、地理院地図などではそのようなエリアは無いようにかかれており、正確なところははっきりしない。
馬場橋と高橋は、東京都町田市小山町と神奈川県相模原市中央区上矢部の間に架かる。相模原市の中央部からみると、米軍相模原補給廠の奥の方に回り込んだ位置になる。下流側にある馬場橋の右岸下流側が上矢部2丁目で、そこから上流側の右岸は上矢部1丁目である。この辺りは細い路地が網の目のように張り巡らされている住宅街である。馬場橋の規模は住宅街の中の路地に相応のものであるが、高橋は往復2車線分を確保しながらなお余裕がある広さの道として整備されており、その先に米軍相模原補給廠の北門?通用門?がありそうな雰囲気である(要現地再調査)。
どちらの橋の前後も、町田市道/相模原市道である。橋そのものは前後が徒歩道に近い状態であったものの、明治期(以前?)から存在したようである。歴代地形図によると、馬場橋のみ、昭和中期に消えていた時期がある模様。
通過するバス路線
常矢橋
常矢橋を通過するのは、"淵21"淵野辺駅北口~小山田はなみずきの丘である。運転間隔は平日日中以降がほぼ60分/土休日がほぼ終日50分で、平日と土曜の朝は増発される。担当営業所は神奈川中央交通多摩営業所である。橋の前後の停留所は、淵野辺駅側=相模原市側が上矢部本町、小山田側=町田市側が常盤となる。
橋を渡る路線バスはのは本系統のみであるが、橋から町田市側に少し離れたところにある常盤交差点で交わる町田街道には複数のバス路線が通っている。主力は町田駅と橋本駅を結ぶ"町30""町60"系統だが、前記事で述べた宮前橋経由で淵野辺駅と神奈中多摩車庫を結ぶ"淵65"も通る。
終点の 小山田はなみずきの丘 はいわゆる新興住宅街だが、その手前の小山田は古くからある集落である。ここまでの路線は遅くとも1964(昭和39)年の時点で既に開設されていた。この時点では路線は、始発が相模原駅で淵野辺駅経由であったが、1970(昭和45)年の時点で淵野辺駅発着に短縮されている(詳細時期不明)。なお、現在でも、小山田までは町田駅から別ルートでの路線が"町27"系統として設定されており、運転本数は少しだけ多い。こちらの路線は、神奈川中央交通の多摩営業所と町田営業所の共同運行となっている。
馬場橋・高橋
馬場橋と高橋を通過するのは、"淵40"系統である。相模原市大野北地区コミュニティバスで「ピンくる号」の愛称を持つ。起点は矢部駅・相模野病院前で、淵野辺駅北口を経由した後、上矢部地区を往復し、淵野辺駅経由で矢部駅・相模野病院へ戻る。上矢部地区の道路が狭隘な区間を走るため、折り返しの終端付近のルートがラケット状になっている。このラケットのループの区間にて、境川を2度渡ることになり、その橋が馬場橋と高橋である。
具体的には、高橋南の停留所を出ると、高橋で境川を越えて東京都町田市に入る。馬場交差点を右折して町田街道に入り馬場十字路の停留所を経るが、すぐにもう一度右折して馬場橋を渡り神奈川県相模原市へ戻って、馬場橋南の停留所に至る。東京都町田市側に存在するバス停は馬場十字路1つだけである。
平日のみの運転で、日中はほぼ60分間隔での運転である。朝はループの入口側になる上矢部1丁目始発で淵野辺・矢部駅方向の急行便が3本運転され、逆方向は回送される。夕刻はループの出口側に近い馬場橋南終着の急行便が3本運転され、逆方向はやはり回送となる。
2014(平成26)年2月に実証運行が開始された新しい路線で、当時は淵野辺駅起終点であった。2016年2月に矢部駅~淵野辺駅間が延長された後、2017年4月から平日のみの運行となって本格運行となっている。担当は、神奈川中央交通東の橋本営業所であったが、2024(令和6)年10月1日より神奈中タクシー相模原営業所に移管されている。
ループ区間内にあり、"淵40"系統では唯一の東京都町田市内の停留所である馬場十字路のバス停は、前節で述べた町田街道を往く路線群と共用である。ループ区間は一方向のみの運転なので、橋本方面行きのバス停は共用ではない。ちなみに、淵野辺駅から下流側の宮前橋で境川を渡り、町田街道経由でやってくる"淵65"系統は、高橋の北岸にある馬場交差点にて町田街道を境川と逆方向に離れて、多摩車庫方面へと向かう。
現場付近の自治体の変遷
常矢橋の左岸側は、江戸期には武蔵国多摩郡上小山田村であった。1878(明治11)年の郡区町村制施行で神奈川県南多摩郡上小山田村となるが、1889(明治22)年の町村制施行で周辺の村と合併し、神奈川県南多摩郡忠生村大字上小山田となる。その後、多摩地区の東京府移管・東京の都制施行を経た後、1957(昭和32)年に大字上小山田から大字常盤が分立、翌年の市制施行で東京都町田市常盤町となる。大字としては比較的新しいが、常盤という地名は室町時代まで遡る古い地名である。江戸期も上小山田村字常盤であった様子だが、詳細は調査未了である。
馬場橋と高橋の左岸側は、江戸期には武蔵国多摩郡小山村である。上述した上小山田と隣接しているが、両者の地名に直接的な関連はない模様である。1593年の太閤検地以前には、小山村が高座川(現代の境川)の両岸に広がっていたようであるが、詳細については次記事で解説する。1989(明治22)年の町村制施行で上流側の相原村と合併し、神奈川県南多摩郡境村大字小山となる。つまり、ここより上流側が旧境村の領域で、現代で境地区と呼ばれるエリアとなる。多摩地区の東京府移管・東京の都制施行を経て、1958(昭和33)年に合併と市制施行により、東京都町田市小山町となっている。
一方、これら三橋の左岸側は全て、江戸期には相模国高座郡上矢部村であった。以前の記事で述べたように、矢部という地名は、上述した小山と同様、境川の両岸に広がっていた地名である。1593年の検地の後、相模国側に残った分が上矢部村となる。1989(明治22)年の町村制施行に伴い、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村とかなり広いエリアで合併して、神奈川県高座郡大野村が成立、その中の大字上矢部となる。1941(昭和16)年に更に周辺の町村と合併して神奈川県高座郡相模原町大字上矢部となった後、1954(昭和29)年に市制施行に伴って神奈川県相模原市大字上矢部となっている。1978(昭和53)年に住居表示の実施により、境川沿いの地域は上矢部1丁目~5丁目となり、現代に至る。
旧矢部村についての大雑把?な考察
現代においては、相模原市上矢部と町田市矢部町とはほんのわずかな距離でしか接しておらず、両者を合わせた領域が、太閤検地以前の矢部村であるとするには、ちょっと無理がある。当時の矢部村は、現在「矢部」とされている領域よりも広かったらしい。
相模原市上矢部の対岸となっている町田市常盤町は、元々は北側に広がる上小山田村の一部であったので、矢部の一部ではないことは判っている。消去法的に考えて、上矢部村が相模国側の下流に位置する現代の淵野辺本町の一部まで拡がっていて、この部分で下矢部と接していたと推定される。
このあたりについて明確にされた資料には行きあたっていない。ご存じの方がいらっしゃったらご教示いただけると幸いです。