境界を越えるバス/都県境編7/旧多摩・橘樹・都築三郡境付近=稲城市長尾地区・川崎市麻生区境界
東京都神奈川県境編7(多摩丘陵編2)
2022年2月/12月現地調査実施
2022年11月26日暫定公開/2023年1月14日正式公開
本記事のデータ類は特記なき限り2022年11月時点のものです。
特記なき限り画像・図面は筆者自身によるものです。
都県境が多摩丘陵を複雑に迷走?するエリアの第2回目は、稲城市(旧多摩郡)が南側に張り出して川崎市麻生区(旧橘樹郡・都築郡)に食い込んでいる部分です。いわゆる新興住宅街の中の道ですが、一部に古くからの街道が残るエリアでもあります。
現場付近の都県境
多摩丘陵の都県境と旧郡境
多摩川を離れて多摩丘陵に入った東京都・神奈川県境は、非常に入り組んでいることで有名(??)である。旧多摩郡と橘樹郡・都筑郡の境界を都県境に設定したためであり、それに間違いはないのだが、では、何故、郡境がこんなに入り組んでいたのかということを解説した文献は、なかなか見つからない。"郡"が設定されたのは律令制の時代であり、今から千数百年も昔のことで、まともな?正確な?地図などなかった時代である。その後、郡境はしばしば変更されているが、その理由がよくわからない場合が多い。
ちなみに郡境は多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺をたどる区間は僅かにあるものの、そこを逸脱する区間が大半であり、江戸湾と相模湾の分水嶺をほぼなぞっている武蔵・相模国境の南部と異なる様相を示している。
おそらく、郡境を決めるにあたっては、現代では正確には知ることができない政治的な力?(いわゆる大人の事情?)が働いて入り組んだ状態になったが、江戸時代の頃には既に政治的な区分ではなく単なる地理的区分になってしまったため、入り組んだ状態のままで放置され、それが明治維新の廃藩置県(厳密には多摩地区の東京都への編入)以降、東京都・神奈川県境になってしまったのでは?、と推測されるが、あくまで、筆者独自の推測に過ぎない点は留意しておいてほしい。
現場付近の都県境の実態
一旦、多摩丘陵の尾根筋に上がった東京都・神奈川県境=旧多摩郡・橘樹郡境(どちらも武蔵国)は、よみうりランド正門の辺りを過ぎてしばらく往くと、『よみうりゴルフ倶楽部』の中を突っ切るようになる。とはいうものの川崎市側=旧橘樹郡側に完全にはみ出している部分は、全18ホール中4ホール分のみでさほど多くはない。その西側に隣接する『東京よみうりカントリークラブ』は完全に東京都稲城市側におさまっている。
この区間の都県境=旧郡境は、多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺にもなっている。都県境の尾根に登り始めた箇所では、支流は異なるもののどちら側も多摩川水系であった。地形図をつぶさに調べてみると、『よみうりゴルフ倶楽部』内を都県境が突っ切っている区間にて南側に分岐する尾根があり、ここから西側が鶴見川水系となっているようである。この尾根は極めて不明瞭になるが、分水界としては百合ヶ丘駅と新百合ヶ丘駅の間にて小田急小田原線と津久井道(神奈川県道3号線)と交差する。
都県境の尾根はその西側で多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺稜線から南側に分岐していくが、その尾根筋もゴルフ場の突端付近で消失し、都県境は鶴見川水系麻生川の源流の谷戸=谷筋に移行する。源流とはいえ、最初の方は暗渠化されており、地上に現れるのは都県境となってしばらく下った後である。その後もも河床・河岸ともコンクリートで固められている。
都県境が麻生川筋に移った地点から稲城市側も新興住宅街となる。そこを抜けてきた平尾中央通りと、川崎市麻生区金程の住宅街を抜けてきた道との三叉路=下平尾(麻生高校前)の交差点にて、麻生川=都県境も斜めに合流。平尾中央通りの東側に沿って暫く流れた後、百mちょっと進んだ金程交差点付近で地下を突っ切って右側へと移行。詳細は後述するが、この付近に多摩・橘樹・都筑の三郡境がある。
その先で麻生川は都県境諸共、平尾中央通り(の延長線上)から右側へと分岐していく。さらに進むと都県境は麻生川を離れ、方向を北西方向に変えて進んでゆく。この部分、当初は尾根筋に取り付くと思っていたが、麻生川の支流が存在しこれに沿って暫くの間は進むようである。
現代では道路と都県境の関係が微妙(??)なことになっているが、後掲する明治期の地形図によれば、麻生川も府県境(当時)も緩やかなカーブを描いて上流側から下流側に続いているため、道路工事(歴代の地理院地図から推定すると1950年代頃?)に際して麻生川の流れに手を加えた結果、都県境が微妙なラインになってしまった可能性はある。
下平尾(麻生高校前)交差点のバス路線
都県境を越えるバスが通るのは、稲城市平尾地区から稲城市道である平尾中央通りをそのまま直進し、麻生川が右手に分岐していく地点を直進して都県境を越え、川崎市道となってさらに直進する道である。これまでに紹介した都県境をバス路線が越えている場所は、このシリーズの初回で紹介した多摩川スカイブリッジ以外は、すべて国道か東京都道・神奈川県道であった。スカイブリッジも東京側は都道の支線扱いだったので、両側とも市道というのは都県境編では初めてのケースである。川崎市側は特に通りに名前が付けられていないので、本記事内では、便宜上、平尾中央通り(の延長線上)と呼ぶことにする。
その先、新百合ヶ丘駅にアクセスするためには、神奈川県道3号世田谷町田線(津久井道)との交差点は直進し、麻生区役所の先で小田急線小田原線を立体交差でくぐる。その交差点を左折することで駅南側のバス乗り場が設けられたロータリーへ直結する道へ進むとができる。ロータリーは地形をうまく生かして半地下状になっている。 ちなみに、下平尾の交差点で東側からやってきてT字路でぶつかる道にも路線バスが頻繁に運転されている。全路線が新百合ヶ丘駅発着なので、上図のように、わずかの区間だけ東京都側を走ることになる。
平尾中央通りにて、東京都稲城市側と川崎市麻生区側を結ぶバス路線は、すべて小田急線の新百合ヶ丘駅を拠点とする路線である。メインとなるのは、"稲02"系統京王相模原線稲城駅発着便とその区間運転便となる"新06"系統駒沢学園発着便、平尾団地の先で分岐していく"新08"系統京王相模原線若葉台駅発着便である。稲城駅発着便と若葉台駅発着便が各々毎時2本程度の運転で、そこに駒沢学園折り返しが毎時1~2本加わる。駒沢学園のバス停は折り返し場としても機能しているが、学校が長期休校となる期間には減便される。朝夕の通学時間帯には新百合ヶ丘駅~駒沢学園間の直行便も運転されるが、長期休校期間には運休となる代わり、入学試験などの行事がある際には臨時便が増発される。この他、少数運転系統として、稲城駅発着便の延長運転に相当する"新05"系統稲城市立病院発着が2時間に1本程度、"新01"系統平尾団地折り返し便が早朝・深夜にのみ運転される。もっとも、ここまでに述べた全系統が平尾団地を経由するため、利便性に問題はない。これらの路線は2022(令和4)年に小田急バス町田営業所が移転してできた、新百合ヶ丘営業所の担当である。
平尾団地の先で右折方向となる"稲02"系統や"新06"系統がたどる道は、都道にこそなっていないものの天神通りの名称を持つ。戦前からあった徒歩道を、1950年代に現代の平尾中央通りが造られた際に車道として整備した、と歴代の地理院地図から推測される。平尾団地の先で直進方向となる"新08"系統がたどる若葉台駅方面へ直結している道は2020(令和2)年1月末に開通した新しい道で、新規開通区間は東京都道19号町田調布線の支線扱いになっている。バス路線自体は、2014(平成26)年に区画整理区域の入口である「上平尾区画整理」バス停折り返しとして設定されていたが、道路の開通とともに若葉台駅まで延長されている。
これ以外に、前章で述べたように、平尾中央通りの下平尾~金程の交差点の付近だけ都県境を越える?掠める?系統も存在する。新百合ヶ丘駅から平尾中央通り(の延長線上)へ出て下平尾の交差点まで走り、ここで右折し金程・向原・千代ヶ丘の新興住宅街方面やよみうりランドへ向かう路線である。厳密にいえば、平尾中央通りが都県境の麻生川の右岸となる区間だけ、両方向とも東京都稲城市側を走っていることになる。主力は"新04"系統向原発着と"新07"系統よみうりランド(正門前)発着便で、各々毎時2~3本の運転である。区間運転便として"新03"系統千代ヶ丘折り返し便があるが運転本数僅少である。ちなみに千代ヶ丘へは下平尾の交差点を経由しない"新02"系統が主力で、こちらの方が所要時間も若干短い。"新02" "新03"系統共に、同じ系統番号を名乗る生田折返場まで運転される便も土休日に少数存在する。夜間にのみ運転される"新09"系統千代ヶ丘循環線は、往路が"新02"系統/復路が"新03"系統のルートになる左回りの一方向循環路線で、駅への帰路でのみ下平尾交差点界隈を通過する。これらの路線群は、小田急バス生田営業所の移転により開設された登戸営業所の担当である。
そして、都県境ぎりぎりまで来て折り返す路線に、上の方の画像でちょっとだけ触れた、iバス=稲城市コミュニティバスのCコースがある。5コースあるiバスの中では唯一循環系統ではない。始発の平尾団地から平尾中央通りへ出てきて、平尾バス停の先=都県境側でUターン。すぐに北側の住宅街の路地へ移り、少し走った後に天神通りを経由した上で鶴川街道を戻るような形で若葉台駅に入る。以後、多摩ニュータウンの東部を通って稲城市立病院経由で南多摩駅まで運行される。ちなみに、別記事で紹介予定のiバスA/Bコースの循環ルート西側半分がCコースと若干の経路違いになっている。Cコースと合わせるとほぼ1時間に1本以上の運転本数となり、平尾団地を含めた稲城市内からであれば、稲城市立病院へのアクセスは確保されている。"新05"系統新百合ヶ丘駅~稲城市立病院の運行本数が少なくなっている理由なのでは?、と推察される。
ちなみに、平尾中央通りの川崎市麻生区側には、都県境にほど近いところに新百合ヶ丘総合病院があり、新百合ヶ丘駅との間に直行便”新26"系統が走っている。平尾中央通り(の延長上)を走るが、駅と病院の間の停留所には停まらない。
行政区画の来歴
現代の東京都側は、江戸時代には武蔵国多摩郡平尾村であった。明治初期の多摩郡分割に際しては、南多摩郡の所属となる。1889(明治22)年の町村制施行時に周辺の南多摩郡の村と合併して発足した稲城村が、1957(昭和32)年に稲城町、1973(昭和48)年に稲城市となり、北多摩郡多磨村(現在の東京都府中市)が多摩川の右岸側にはみ出していたエリアを編入した以外には、合併・分割を行わずに現代に至っている。ちなみに「稲城」という地名は、町村制施行に伴う合併時に発案・採用されたものである。
一方、現代の神奈川県川崎市側は、武蔵国橘樹郡と都築郡の境界付近になる。現代の川崎市麻生区金程は江戸期には橘樹郡金程村→明治期の町村制施行に伴う合併で橘樹郡生田村の一部となった領域である。都築郡側は、江戸期には麻生区万福寺は都築郡万福寺村/麻生区古沢は都築郡古沢村で、明治期の町村制施行による合併で周辺の都築郡の村と合併し柿生村となる。
橘樹郡生田村は1938(昭和13)年に周辺の橘樹郡に属する町村と共に川崎市に編入される。都築郡柿生村は1939(昭和14)年に他の都築郡の地域が横浜市に編入されたのに対し、岡上村と共に川崎市に編入される。1972(昭和47)年に川崎市の政令指定都市への移行に伴い、このエリアは川崎市多摩区となった後、1982(昭和57)年に都築郡であった全域と橘樹郡生田村の西部が川崎市麻生区として分立、現在に至る。
したがって、今回の調査地点の近傍に、江戸期における多摩郡・橘樹郡・都築郡の三郡境が存在する。現代の地名でいうと、稲城市平尾2丁目・川崎市麻生区金程1丁目・川崎市麻生区万福寺5丁目の境界になる。地図によっては、平尾中央通り(の延長上の川崎市道)の道の西半分だけ川崎市麻生区古沢が入り込んでいるように描かれている地図もあるが、三郡境の位置には影響しない。
ちなみに、何故、現稲城市の他エリアのみならず、旧多摩郡の他エリアとも多摩川・鶴見川の分水嶺となる丘で隔てられた平尾村が多摩郡に属したのかは、調査したものの不明であった。ただし、江戸時代前期までは、麻生川が鶴見川水系の最上流部の1つであることから、都築郡所属であったらしい(出典:「稲城歴史探検」https://inagi.info/hirao.html 稲城市の市議会議員さんによる個人サイト)。
もっとも、長尾村の北隣であった現代の若葉台周辺地区である坂浜村は、多摩川水系支流の三沢川流域であったにもかかわらず、江戸期より前は都築郡所属だったようであり、謎は残る。
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