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戦国武将ドラフト物語(わさびさんver.)
はじめに
というわけで、全体の指名は以下の通りです。
戦国武将ドラフト十傑の全指名選手 結果
指名一覧はこちらでも確認可能です → ☆彡
(Googleスプレッドシートに飛びます)
指名について
わさびさんの指名は、以下の通りです
この指名を基に仮想ゲーム?(っぽい)シナリオを描きます
1位 石田 三成 (近江国)
2位 大谷 吉継 (大和国)
3位 島 左近 (大和国)
4位 佐竹 義重 (常陸国)
5位 九鬼 嘉隆 (志摩国)
6位 松永 久秀 (大和国)
7位 真田 信之 (甲斐国)
8位 本庄 繁長 (越後国)
9位 帰蝶(濃姫)(美濃国)
10位 毛利 輝元 (安芸国)
わさびさんの指名テーマなどは、以下のnote記事から閲覧可能です
ストーリー
慶長4年(1599年)3月3日、大阪の石田屋敷に豊臣武闘派の7武将が襲撃。事前に知らせを受けた石田治部少輔は、佐竹家の助力を借りて宇喜多家へ避難。それも束の間、更に探索の手が伸びてくる
宇喜多秀家
「一先ず、西国に落ち延びられませ。我が領内より更に西、毛利家に辿り着けば、いかな武将といえども手出しは難しくなりましょう」
秀家の助言を基に、三成は再び脱出。追撃を振り切り、毛利家に辿り着く。三成に保護を求められた毛利家当主、輝元はこれを快諾。共に大阪城へ向かうことを約束する
一方、三成を取り逃がした武闘派は伏見の家康に仲介を依頼。三成・輝元側も安国寺恵瓊を使者に折衝を行う。両者は朝鮮出兵での論功行賞の見直し、三成も今回の責任を取って奉行の退任を取り決める。
これで平和的に解決…
と思われたが、両者のメンツ、そして徳川・毛利の大国の思惑がぶつかる
武闘派側は三成の処罰が甘いとして、自領の佐和山城の蟄居を要求
三成側も蟄居に応じず、また今回の襲撃事件が不問となることに不服を表す
いつしか話し合いは形だけのものとなり、両陣営は戦準備をしていた…
そして慶長5年(1600年)、遂に家康側は毛利征伐を宣言
これに伴い、毛利家も東進を始める。
それでも大谷吉継は、天下を二分する大乱を避けようと病を押して、奔走するのであった。果たして、この国の行く末は・・・
チュートリアル
当初は直ぐに大阪へ戻れると思っていた治部少輔
だが、家康側の支援により尼子家残党、更に家中で分かれた宇喜多家一派が行く手を阻む。しかも吉川・小早川の両川は東進に乗り気ではなく、領内を出ようとしない。折しも同じく家康側に支援を受けた、領土復帰を願う大友義統が豊後で蜂起。背後から攻めてきたので、動けなくなってしまった。
一刻も早く刑部らと合流したい三成に焦りが出始めるが、彼と共にする配下の武将達が奮闘を始める!
<STAGE1> 尼子家残党と宇喜多家一派を蹴散らせ!
使用可能武将: 石田三成、島左近、本庄繁長、真田信之
<STAGE2> 北上してくる大友義統を上陸させるな!
使用可能武将: 石田三成、島左近、九鬼嘉隆、松永久秀
差異点
①三成が逃げてたのは、京都の伏見城にある石田邸
その後、伏見城下で政務を取り仕切ってた徳川家康が仲介。七武将の三成引き渡しを拒否。石田三成の隠居、今回の襲撃事件の責任不問、論功行賞の見直しで決着しています。この裁定には、大谷吉継も支持しています。しかし近年、この襲撃事件には疑問も投げかけられており、単なる訴訟騒動だったのではないか、など色々と研究が進められてます
②尼子家残党は全滅。大友義統は西軍
この頃は尼子家のお家再興はありません。大友義統の方は、西軍の支援を受けて旧領回復の為に豊後で蜂起。加藤清正など、東軍参加武将の本領地に打撃を与えることを期待されましたが、黒田如水により敗北。彼は合戦後、常陸国に流罪となりました。そんな訳で、中国地方への侵略はないです。
終わりに
今回もフリー素材として、以下のサイト様から利用させていただきました。誠にありがとうございました。