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握りしめていたものを手放した満月〜バンコクでの体験のあとに〜
今日は満月です。
満月は一般的に手放しをするといい、と言われていますが、私はまさにこの時期に手放すことがありました。
ここ何年か向き合ってきたことに、機能不全家族のなかで培ってきた、自分の生きづらい生き方の見直しがありました。
1歩進んで2歩下がる、を繰り返しながら、螺旋階段をのぼるように、癒しが進むと緩やかに今まで観えていた景色が変わっていきました。
それでも、原家族との繋がりで、離れたりくっついたり、試行錯誤を繰り返していました。
瞑想をしたり、ヨガをしたり、様々なセッションうけるほどに、私はやはり原家族と繋がると私らしくいられない、という声が内側から聴こえてきました。
私のなかに、原家族ともうまくやりたいという思い、希望がありました。
高齢の両親にいいケアを受けさせたい、よくしてあげたい、という私の理想もありました。
が、兄弟も含めた原家族に近づけば苦しくなる、彼らの集合無意識に、私だけが馴染まない、ということもはっきりと感じてきました。
何の学びもしていない頃の私は、原家族といても、それなりに馴染んでいました。
それほど、私は「私」を消して生きていました。
その方が環境に適していたから無意識にそうしていた、仮面の私が私なんだ、と思い込んでいました。
が、癒しが進むほどに、その違和感は強くなる一方で、私はやっと、私が私らしくいるために、私が光のなかで過ごし、彼らを温かく見ているためにも、無理をして近づかない方がいい、と感じ取れました。
昨夜、長い瞑想に久しぶりに没入したあと、原家族に光を感じ、そのあと温かい気持ちのよい体感があり、感謝の念が湧き上がってきました。
それは、私のなかにあった原家族に対する闇の感情を表出し、その感情にしっかり向き合い、味わったあとの瞑想でした。
握りしめていたものを手放した、やっとホッとできるような解放感と同時に、寂しさもありました。
この寂しさ、孤独を感じたくなくて、ぎゅっと握りしめていた感情がある、と感じました。
つくづく感じたのは、どんなに表面的にいい人をやろうとしても、抑圧してきた感情に蓋をしていては、温かい気持ちで感謝はできない、ということでした。
抑圧してきた感情を、自分のなかにある闇に光をあて、取り出してその感情をしっかり味わったあと、私は、不健全な家族関係を手放したのだ、と明確に感じました。
そうしたら、そこにスペースがあいたのか、ちょうど今日の満月の頃、ビジョンが見えました。
私は何かやりたいことがはっきりしない、雲をも掴むような、ふわふわしたところがありました。
このふわふわさが掴みきれない、と漠然と思っていました。
それは、寂しさを感じたくなくて、握りしめていた原家族との関係があったから、私の心にスペースがあかなかったのかもしれない、と今日の朝、ふと感じました。
先日、バンコクに行き、私はちょっとしたサバイバルな体験をしたことから、日本にいるときの自分が何をしていたのかが、垣間見えました。
安心、安全な日本で、私は頭ばかりを使い、眠っているように観えなくなっていたことが、バンコクで、この世で生きるというのは身体を使うことなんだ、と気がつきました。
安心、安全な日本で、私は身体を使わなくても、ふわふわと生きていけましたが、他の国に行ったらそれはできない、と感じました。
夫は、私の様子を見ていて、
「あなたには海外はきつそうだね。無理させてはいけなかったかもしれない、とちょっと反省した。」と言いました。
が、私に必要なことだから聖霊はそのような体験を与えてくれたのだ、と思えました。
その体験で、私は眠りからふいに目覚めたような感覚がありました。
「私」の範疇が広がりました。
世界の誰もが私、なのかもしれない。
そう思うとゾクっともしました。
私はまだ生まれたばかりの赤ん坊のように、この世界を歩く感覚があります。
この世が幻想ならば、今までとは別の見方で、別人のように、別次元でこの世を行きたい。
身体を使う生きる、
と心を使う生きる、
を統合させて。
そんなことを思った今日は満月です。
今日の満月、あなたはどのように過ごしますか?
誰もが手放せる感情を手放し、軽やかに生きていけますように。
癒されながら、この世を深刻にならず、それなりに(笑)楽に過ごせるように祈っています。