
原家族の中の自己イメージで、今も生きていませんか?
私は最近、家族と話していて、原家族の中で培ってきた私のポジションから、もうしっかり抜け出たな、と感じることがありました。
私は原家族の中で期待されていた私のイメージを破壊し、私が私として生きるための在り方を手に入れた、と。
私は大人になっても無意識に、7人家族の1番歳下の、兄がいる中での、たった1人の従順な家族の世話をする優しい女の子、を演じていました。
本当の私は従順でない、
思ったことは誰であっても率直にいう、
意志のはっきりしている女の子、
だったのかもしれません。
が、両親をはじめ原家族から期待されている女の子、でないと愛されない、とその期待されているイメージに沿って、無意識で捨てられないために行動をし続けていました。
当然無意識であり、本来の自分ではないので生きづらく、私が誰であるのかわからない、という状態のまま、その場その場に相応しい行動、在り方をすべての指針として生きていました。
が、生きづらいので数年前からセラピーを受け、学び、あらゆるツールを使って自己探求をするうち、今まで長年やってきた行動とは異なる私、異なる在り方が本来の私であった、と気づいていきます。
私のかつての在り方、行動は、機能不全に陥っている原家族の中でよく機能する、家族間のバランスをとるために手に入れた生き方であった、ということに嫌というほど気づくようになりました。
冷静に考えても見れば、自分より先に生まれた、という事実だけで、どうしてこれほどまでに歳下である私は彼らの意見に合わせ、見捨てられないよう細心の注意を払って生きていかなければならなかったのでしょう?
子ども時代の私が手に入れるべきことは、
私は尊重されていい、
私は大事な家族の一員である、
私の意見はOKだ、
みんなの意見もOKだ、
家族みんながOKだ、
という感覚です。
これが、
親の意見はOKだ、
祖父母の意見はOKだ、
兄の意見はOKだ、
女の子のおまえの意見はOKではない、
という感覚を、しっかりと私は家族の中で
手に入れていました。
これが私が自分らしく生きていくことを、
いかに忘れ去る要因になっていたことか、
と感じています。
どれだけ小さな頃に起きたことでも、家族の中にあった間違った信念は、自分で努力して書き換え、手放していかないと私たちはいつまで経っても、自分らしい幸せを手に入れることはできません。
私たちが与えられた生命を十分に生かしていきたい、と思ったならば、自分を幸せにするための努力は欠かせません。
なぜならその努力は必ずいつかは実るよう、私たちの魂にプログラミングされている、と私は思っています。
そうでないと、私は15年間続いたあれほど過酷な摂食障害を乗り越え、生命を繋いで今ここにいる、と思え無いのです。
あの負の体験を超えて、今幸せに自分の生命をいかせて生きているのは、私の魂にプログラミングされていたストーリーなのだ、と感じています。
その方にはその方のストーリーが必ず存在します。
が、原家族の自己イメージで生きている間は、なかなかそのストーリーが曇って隠れてしまい見えてきません。
ストーリーが浮かび上がってくるために、培ってきた自己イメージを1度疑って破壊してみる価値はみんながあるのではないか、と感じています。
あなたは、本当に、その自己イメージ通りのあなたですか?
この質問を最後に投げかけたいです。
よく分からない、というかたは、
私とともに探っていきましょう。
自己探求は、とっても面白いものですよ。