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香港 #42
問題から逃げて、アンディと暮らし始めた私はとても浮かれていた。
愛する人と共に時を刻む幸せ。世界中の幸せを全部手にした気持ちだった。
そして、怖くなった。
幸せが極まるとその反動で何か悪い事が起こるかもしれないなんて事、考える必要はないのに。長い人類の歴史の中でそんな事が多々あったのだろうか、そのせいで刻まれ続けたDNAのせいなのだろうか?
私は、ただ怖かった。
その日は強めの雨が降っていたが、私は仕事を終えたらアンディと映画を見に行く約束をしていた。
少し鼻歌交じりで階段を降りていた時、誰かに後ろから急に押された気がした。
「きゃっ!!」
と声をあげた瞬間、咄嗟に手でお腹をかばったが、なすすべもなく私は階段を転げ落ちた。
体に走る痛みはわかったが、突然の事に何が起きたのかわからなかった。
強烈なお腹の痛みを感じる中、私の意識は遠ざかっていった。
どのくらいの時がたったのかは、わからなかったが、目覚めた私の目に映ったのは真っ白な天井とゆっくり落ちる点滴バッグの輸液。
そして、ラム先輩が両手で私の左手を握ったまま、祈る様に下を向いていた。
私は咄嗟に手を引いた。
「良かった。意識が戻ったんだね」
心の底から喜んでいるのがわかった。
「どうして?先輩が」
「病院まで俺が付き添って来た」
まだ朦朧としていたのに、私は急に我に返った。
「私の赤ちゃんは、赤ちゃんはどうなったの?」
と今度は先輩の腕をつかみ、声をあげる。
先輩は言葉もなく俯いて首を振った。
呻き声と共に私は声を上げて泣いた。
先輩は私が泣き止むのを黙って待っていた。
ひとしきり泣いた後、私が口を開いた。
「一人にしてください」
「ごめん、俺のせいで」
「先輩のせいじゃないです」
「いや、俺の責任なんだ。あんな事を言ったばかっりに・・・本当に申し訳なかった」
「何が」
「君はシンディに突き落とされたんだよ。彼女が僕らの話を聞いてた。それで僕を取り戻すチャンスがなくなったと思って。・・・妊娠した君が邪魔になって突き落としたと言っているそうだ。さっき張が連絡をくれた」
「たまたま君が突き落とされるのを見た人がいて、警察も来て一時は損然となったそうだよ」
「先輩の子じゃありません」
「俺の子じゃないのはわかってる。そんなの俺が一番わかってたけど、あの時、君と初めからやり直せるんじゃないかと思った。それに、俺の他にそんな相手がいたなんて。どうしても許せなかった」
また、涙が溢れて来た。
でも、先輩がそれほどまでに私を想っていてくれたのは真実だった。
シンディさんはシンディさんで先輩をとても愛してた。
全ては人を愛するがゆえの執着心が起こした事。
ただ愛した人から愛されたかっただけ。
でも、私は子供を失った。だから、二人をどうしても許せる気にはなれなかった。
私が突き落とされた時に持っていたポーチの中身も、警察は調べていた。
其の中の手帳の中に書かれていた、緊急連絡先のアンディの名前、住所、電話番号を見て、彼に私が入院したと連絡を入れてくれていた。
「お願いです。帰って下さい」
と先輩に頼んでいる最中、アンディが血相を抱えて入って来た。