香港 #33
出社して一番先に上司の元に向かい、突然長いお休みを頂いたお詫びとお礼を述べた。その後に先輩や同僚たちにも。皆は、それぞれお悔やみや、私への労りの言葉をかけてくれた。そして、最後にやっとラム先輩を見つけたので、彼の元に駆け寄り、昨夜の電話に出なかった件を深く詫びた。彼はまず他の人同様に言葉をかけてくれたが、続けてとても鋭い言葉を放った。
「今朝はどうしたの?迎えに行ったけど、家に居なかったよね。それにたった一週間会わない内に、何か君がとても遠くに感じるよ」
それは、私をとてもドキッとさせた。そして、返すべき言葉を考えあぐねていると、先輩は今夜仕事を終えた後、22時過ぎに会って話しがしたいと要望した。私も話をすべきだと思い、会う約束を交わした。
アンディにはLINEで嘘をついた。
「大好きなアンディ。今夜は急なシフト変更があって泊まりになったから、また明日連絡します」と。
仕事を終えて落ち合うと、先輩はタクシーをひろい私を蘭桂坊(ランカイフォン)にあるスタイリッシュなバーに連れて行った。
店にいる客達は洗練された格好で、静かにアルコールを楽しみくつろいでいた。すぐに、その界隈に多くある賑やかなバーとは違っているのを感じた。その場所に相応しい洋服を身に着けていなければ、何か肩身が狭くなるようなバーだと感じた。
その夜の私は、いつもなら仕事には着ていかない類の、少しお洒落なワンピースを着ていたので、恥をかかずにすんだと胸をなでおろした。
オーダーしたお酒を待つ時間をもてあまし、眼下に広がる景色を黙って鑑賞した。息を呑むほど美しい、夜に映える高級住宅と高層ビル群の眺め。
100万ドルの夜景と言われる香港の夜景は、誰をもとてもロマンティックな気分にさせる。でも、今夜はそんな気分に浸ってはならないと、無理やり私を現実世界へ連れ戻す。
目をあわせず、無言のままの二人にお酒が運ばれてきた。
ラム先輩にペールエール。私にはモヒート。
そこは、キャッシュオンデリバリー方式をとっているバーで、ウェイトレスが支払い方法を尋ねてきた。
今は現金で支払う人はほぼおらず、先輩もテーブルに置いていたスマホを取り上げると、ウェイトレスの差し出した小さな機器に翳し、私の分も一緒に支払いを済ませてくれた。
先輩は、母の為に献杯をしてくれた後、お酒を一口飲むと、頭を下げてきた。
「この間は、本当に申し訳なかった」
そのお詫びの言葉に対して私はただ、「大丈夫です」とだけ言った。
それから、あの日先輩が帰った後で、日本から突然の連絡があった事。急いで帰国し、母が生きているうちになんとか会えたことなどを語り、話すべき本題に入るのを、少しだけ遅らせようとした。
ほんの数か月だったけど、本当に先輩が心の優しい人だと十分知った。でも、恋はしなかった。沢山尽くして貰った。でも、彼氏だと思う事はなかった。
毎日先輩の好意に甘え続け、誠実な優しい良い人と思いながらもそれ以上の感情が芽生えない事をどう伝えるべきかと悩んでいた事。一人の男性ではなく兄の様に慕っていた事。誰かを好きになる感情は、動物的な本能の様な物だと思った事等も、私は誠意を持って、きちんと思いの一つづつ全てをラム先輩に打ちあけた。
私の言葉を噛みしめていたのか、少しの時が流れた。
「気づいてたよ。それでも大好きになりすぎて、一緒に居たくて、気づかないふりして・・・たとえ一方通行でも、君の笑顔をただ見ていたいから。今まで通り、一緒にいてもらえないだろうか」
そう懇願された。
私はとても胸が痛かった。でも、もう、うやむやにしてはお互いの為にならないとわかっていた。それに私はもう別の人のものだった。だから私は、はっきりと”NO”を告げ、謝った。
それに対し先輩は無言でいた。
「本当にありがとうございました。明日からは後輩の一人です」
先輩はかすかに頷いて、下を向いた。
私は静かに席を立ち、深々と頭を下げ幕引きしようとした。
「じゃあこれで、失礼します」
「優亜。やっぱり何か違う人の様だね・・・」
先輩が私の顔を見上げた。
「さよなら」
少しの笑顔を残し、私はその場を立ち去った。
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