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東京

「わ」のナンバー、黒く輝く2シータークーペ。それは、ゆっくりと私の目の前に止まった。

彼は降車し足早に回り込むとドアを押さえ、「どうぞ」と私を誘いこむ。その滑らかな導きに車へ乗り込むと、目の前のダッシュボードには一輪だけのオーキッド。「花束は好きじゃないの。一輪がいい」そう言った私を、彼はまだ忘れずに覚えていてくれた。「ドクン」と心臓が鳴った。

「首都高を飛ばして」と合図のように私が言う。
何千何万もの、ビルの小さな窓から漏れる灯りや、中央分離帯の向こう側を走る対向車のヘッドライトが、次々と目に入っては流れてく。
二人一緒なら死んでもいいと思っていたあの日が、確かにあった。
全てを捨てても二人でいるのだと、そんな日が、確かにあった。
貪りつくす若いエネルギー。
分別なんて無い恋。
ただ欲望がすべて。
好きという気持ち以外に、何が必要かなんてわからない時が、確かにあった。そんなことを思い出していた。

私たちの背後には、怒涛の勢いで迫るスポーツカーが一台。右車線に出るとブォーンと低い唸り声をあげながら一気に私たちを追い越していく。
「あの車抜いてよ」私のその言葉と同時に、彼がアクセルを強く踏みこむと、車は驚くほど急速した。
あの頃の私は、まるで豹が獲物を捕まえる様な気分でスピードとスリルと興奮を楽しみはしゃいでいた。しかし、ここ数十年私が慣れ親しんでいたのは唯一、静かなファミリーコンパクトカーだけ。私の体には自然に力が入り、心臓が破裂しそうにバクバクとした。

何度かその車を抜いたり、抜かれたりを繰り返した後、暫くして彼は後方を確認するとスピードを徐々に緩めていった。そしてそのスポーツカーは加速したまま、私たちの視界から消えていった。
「なかなかのものね」
「久しぶりに血が騒いだ」
「私は駄目ね、心臓が止まるかと思った」
私たちは一瞬瞳を合わせ、笑った。

彼は、しっかり握っていた左手をステアリングから離すと、少し汗ばんだ私の右手に重ねた。
「今日は朝までいられる?」
「うん」

言葉の後に臥すのは想像通りの未来。
家族への嘘の上に出来た二人の逢瀬。
これが最初で最後だと自分自身に言い聞かす。

二十年ぶりに街で出会う奇跡なんて、誰もがあり得ないと口をそろえて言うに違いない。でも、本当にただの偶然に、私たちは再会してしまった。
たとえそれが悪魔からの罠だとしても、今夜、私は引き返せない。

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