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五井先生の文

光ありて耀かさず、というのは、自己は天に住している心境なのですから、光明燦然と耀く程のひびきを放っているのですけれど、その光を人々に判るような耀かせ方はしないで、自然に人々の心に沁みこむような生き方をしている、というのです。

この世の中には、光を放つ程の心境でもないのに、如何にも光明燦然というような顔をして、人々に道を説いている人もありますが、老子などは全くこの反対を説いているのであります。

例えどのような真理の道でも、あまり高過ぎて、人々には手もとどきそうもないように説いたのでは、人々はその教えについてゆきようもありません。ですから、誰にでもすぐ手がとどいて、すぐに行えるような道にして、説かねばなりません。高い道を一度低い道にして説くということは、道に把われていてはとてもできるものではありません。自己の住んでいる高い立場を下まで降りてきて道を説くことができぬようでは、とても、光ありて耀かさず、というようなことにはゆきません。

国民を迷から目醒めさせる為には、光ありて耀かさず、というような人々がたくさん出て、大衆の中で生活していてくれれば、いつの間にか多くの人々が、真理の道を踏み出すようになるのです。

私はその道を世界平和の祈りの道として、宣布しているわけなのです。誰も彼もやさしく入れる大衆的な道でありながら、入ってみると光明燦然とした道であったというのが世界平和の祈りの道なのであります。

道は一度に遠くにはゆけぬもので、道は近くにあって、しかも永遠にまでつながっているものなのです。最も身近かにある道は、家庭調和の道でありながら、それはそのまま世界平和の道でもあるのです。

世界平和の祈りの道は、自己の偉さを喧伝する道ではありません。各自各自が、自己の想念を世界人類が平和でありますように、という人類愛の祈り言の中に、静かに穏やかに入っている、という道であります。

世界平和の祈りの道は、神のみ心と人の愛とをつないでいる道です。世界人類が平和でありますように、という祈り心が出ている時その人は、どのような凡愚の人であっても、光明に耀いているのです。

世界平和の祈りの道から、どれだけの人が、老子に賞でられるような聖なる人となってゆくであろうかと、私は心ひそかに楽しみにしているのであります。

人に目立つことをするのが人の誉ではない。目立たずひそかにいても、その人の心に世界平和の祈りが常に絶えることなく湧き出でていぶるような人こそ、世の誉なのであります。

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