五井先生の文
私はすべて守護神、守護霊という救いの力を中心にして、業因縁はすべて消えてゆく過去としてとりあつかってしまったのである。
実相として完全円満を宣言しても、現象として心の法則をもってくれば、せっかくの完全円満が消えてしまうのである。
また、神様、神様と祈っても、眼にもみえず、手にも触れない実観としてぴんとこない神様では、絶対的にたよりきるにはつかみどころがない。そこで、イエスとかマリヤとかいう一度肉体に現われたことのある、いわゆる実在したことのある人物の神格化をとおして救われようとねがうのである。仏教的には教義の面だけでは一般民衆にはわかりにくいので、仏像という形をつくり、その仏像をとおして救いの力を得ようとするのである。お経でもそうである。中の意味が理解できるできないということと全く別に、ただありがたい功徳のある経文だという概念だけで踊経する人が大半なのである。何かつかみどころがあれば民衆はそれをつかんで自己の心を勇気づけ慰めとするのである。こうした人間一般の心を無視した宗教理論だけでは、邪教と思われるご利益宗教にかなうわけがない。民衆は現実面でただちに救われたいのである。永遠の救われということはひとまずおいて、その場、その場をうまく切りぬけてゆくための神様が欲しいのである。
守護霊、守護神とただいっただけではやはり実観としてぴんとこない。この守護霊や守護神が自分たちと同じように人間的愛情をもった、しかも自分とつながり深い、親の親つまり祖先の悟った力のある人、あるいは生れる前から自分につききりで観ていてくれる愛情をもった神、でなければならないのである。何があっても、自分をまっさきに救ってくれる肉親的愛情の所有者である神が必要なのである。
私はこうした神を、守護神として改めて民衆に発表した。そしてその下に真実肉親として系図をみればわかるような祖先を守護霊としてはっきり認識させるように教えている。今までなんとなく漠然としていた守護神、守護霊を、各自が、自分のものとして暖かい想いでつかみ得るように示したのである。
「守護霊さん、守護神さんにつねに感謝してお任せしておれば、あなたの汚れを浄めながら、あなたの危険をいつも防いでいて下さるのですよ」と教えられれば、神への全託が非常になしやすくなるのである。事実、霊界、神界において、これら、守護霊、守護神が、人間一人一人のため、あるいは人類すべてのため、どれだけ偉大な働きをして下さっているか計り知れないのである。それは現在私が、そうした神霊たちの浄めの場所として、私の肉体を提供しているので、はっきり明言できる立場にいるのである。