五井先生の文
観念的に人間神の子とやっているだけでは、とても真実の神の子の姿は現われてはまいりません。真実神の子の姿を現わすためには、人類平和につながるなんらかの働きをしていなくてはならないのです。
優しい人だ、善い人だ、というだけでなく、一歩前進して、世界平和のための何事かをなし得る人になることを、イエスも望んでおられたのですし、私も望んでおるのであります。私はそれをやさしく誰にでもできる観の転換法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法にして、すべての人に神の子の姿を現わしていただこうと運動しているのであります。ただ自己の周囲の現象的な幸福だけを望んでいたのでは、その人たちは、いつまでも弱肉強食の世界、善悪混涌の世界の住と人として生活しつづけなければならないので、神の子として称えられるわけでもなく、神の子としての真実の幸福を得るわけにもゆかないのです。
柔和でしかもこの世界を平和ならしむる、なんらかの働きをしている者を、神は祝福し給うのであります。
そういう眼でこの世界を見渡してごらんなさい。個人としてはそういう人もかなり存在しているのですが、国家として、はたしてどこの国が、イエスのいう柔和なる者であり、平和ならしめる者でありましょうか。ベトナムで爆撃をつづけて多くの人員を殺傷している米国でしょうか。米国僧悪の感情に全人民を燃え立たせて、共産政権の安泰をはかろうとしている中共でしょうか。それとも陰にまわって小国群に武器を売り渡し、自国は原水爆の多量の蓄積のもとに、米国と中共との争いないないをほくそ笑みながら眺めているソ連でしょうか。否々というほかはありません。英国も仏国も、すべての国家群が、まず自国の安泰のための政策に終始していまして、イエス・キリストのみ心に叶った生き方をしている国家はどこにもないのであります。
自国を救い、地球世界の運命を救うものは、もはや一人一人の平和ならしむる働きよりないのです。一人一人が結集して平和ならしむ者の集りとして、神の子の結集をそこに実現せしむるより、他に今日の地球の運命を救う方法はないのです。
「幸福なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称へられん」
イエス・キリストのこの言葉の実現のためにも、私たちは世界平和の祈りの道を拡げてゆかなければなりません。私たち一人一人のたゆみなき祈りの行は、そのまま、この地球界に光をふりまいていることになるのです。一人の人を真実平和な心にならせることだけでも、その人の神の子の姿は現わされているのですが、世界人類のすべての人のために、日々たゆみなく、平和の祈りをしている者は、神の子の姿を常に現わしている尊い人なのです。