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五井先生の文

真実の自分との調和を

いくら人のためにつくしているようでも、自分の心を暗くし、家庭を不和にしているようではあまりよいとはいえません。やはり潜在意識に暗い想念を吹きこんでしまうことになってしまいます。人のためにつくしながらも常に光明心を汚さずに、神のみ心のような調和した心境でいられるようになることが、真実に自分のためにも人のためにもなることなのです。

顕在意識と潜在意識との調和、そして双方の意識がそのまま神のみ心に通じている、という状態になれば、自ずとその人の人格も立派であることにもなり、運命も善いものになるのであってそういう人間の存在が、一番世界平和のためにも役立つことになるのであります。

この最もやさしい方法が、先ほどから申しております、消えてゆく姿で世界平和の祈りなのです。この方法は何度び申し上げてもよいことなので、ここで再び申し上げますが、釈尊の説かれるように、色即是空、空即是色という心境になり、すべてを無と断じ、無と断ずることさえも無なりと想う、その想いさえ更に無い、という心の状態に成り得れば、その心はもはや現象界の心ではなく、実在界、神仏の心でありますので、何も申し上げることはないのですが、こういう心境になり切れる人は、一時代に何人もあるわけではありませんので、今日のように、業想念波動、つまり神仏の心から離れ去っている想いや行為の多い世の中では、ますますこうした空即是色の心境になり得る人は少くなってきます。

三十五億の誤り、プラス幽界波動の汚れや濁りを、こんなにむずかしい方法で、どうして浄めることができるでしょうか。専門の僧侶が一生かかっても到達できぬ境地を、だれでもできるように説いていたとしたら、それは天の星を竿で取ろうとするほどの不可能事を、可能のように説いていると同様なのです。私なども空になる練習を想念停止という方法で、守護の神霊から天下り式にやらされたのでありますが、常に生命を投げ出しきり、自己を捨離しきっていないと、とうていでき得ないことでありましたが、幸いに私はその頃独身でもあり、この世になんの責任もない立場に立たされていましたので、すぱりと自己を投げ出し、神に生命を捧げることができまして、今日の霊覚を得たのであります。(拙著天と地をつなぐ者参照)普通ではなかなかできにくいことである、と私は私の苦しみの中で思ったのです。

そこで私は、空になることの普通人には不可能なことを知り、空になるエレベーター、をつくることにしたのです。それが消えてゆく姿という言葉なのです。今自己に現われている悪も不幸も災難も、自分の心に起っている嫌な想いも、他人から仕向けられている忌むべき事態も、すべては過去世から今日に至る神仏のみ心を離れていた想念行為の結果として現われてきたもので、現われてしまえばそのまま消えてゆくものである。そして、消えてゆくにしたがって、神の子の本心本体が自ずと現われてくるのであるから、その消えてゆこうとして現われてくる、悪や不幸や災難を、すのべて消えてゆく姿として、世界人類の平和を祈る、人類愛の祈りである、世界人類が平和でありますように、という祈り言の中に入れきってしまいなさい、と説教らしくなく、容易に納得できる方法で、空の心境になり得る道に、人々を導き入れることにしているのであります。

これなら、無理に空になろうとする必要もなく、時日がたてば自然と空の心境に近づき、やがては空即是色の心境にもなり得るのです。なんにしても、この現象世界に、実在界の真実の光明を現わし得るようになればよいので、個人も国家も人類すべても、みな調和し和合してゆける地球にすることが何よりも大事なことなのです。

その方法はやはりむずかしい方法ではいけません。昔風の宗教の在り方では、今日の人は真剣についてゆくことをいたしません。真剣のようにみえる人が、案外と一宗一派に片寄った、頑くなな不自由な心の人であったりして、なかなかすうっと神の世界が実現しそうにはありません。そこでやはり忍耐強く、焦らず、あわてず、たゆみなく消えてゆく姿で世界平和の祈りを実行してゆくことによって、自分もその周囲も自ずと明るく立派になり、世界人類の光明化の一役を買うことになるのです。

どうぞ自分自らが調和した人間になるよう世界平和の祈りをおつづけ下さい。

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