後輩がイケメンすぎると問題かと… 第9話
1
午前8時30分、私達4人は再びミュゼの横浜事務所前にある花時計を眺めていた。
ここに到着するまでの車内で私は、これまで説明できなかった花時計の『表情の違い』をみんなに説明した。
「… ほんとだわ、確かに違う」
おでこをくっつけるようにして稔さんと1台のスマホを覗きながら、昨日撮影した私達の写真と目の前の実物を見比べて、ゆりかちゃんがそう呟いた。
私は時計の下にあるカレンダーが埋め込まれた花壇の一部と、花時計の文字盤の一区間を指差した。
「ここと… あの部分よ」
稔さんがそこに近づいて観察する。もう一度、記念写真の画像と比べて頷いてから、感心するように呟いた。
「女性の感性ってのはやっぱり優れてるよな。野郎だけだったら絶対気が付かなかったぞ」
私が示した花壇の一部分は昨日の記念写真と色が少し違っていた。
「由美さん、やったね。やっぱ、由美さんスパイより探偵に向いてるよ。職替え考えてみれば? 」
中嶋社長のセルフィー写真と比べていた恵基も納得して、いつものウインクを私に投げて微笑んだ。
「私もたまには役に立つこともあるってわかったでしょ? 」
ちょっと勇気を出して恵基にドヤ顔の笑顔を返してやった。心の中はドキドキしてるんだけど、コイツに振り回されてるだけじゃこれから先、何も前進できないから…
恵基はそんな私のリアクションにちょっと驚いてたみたいだ。アーモンド型の美しい目をまん丸く見開いて、私の顔を眺めた。それから、
「俺、由美さんが役に立たないなんて思った事、一度もないよ」
と、いつもよりも穏やかな優しい口調でそう言うと ふっ と目線を下に向けた。
なんか、いつもの恵基とちょっと違う態度だな。『俺様度』のレベルが低い。もしかして私、このイケメン過ぎる問題児の扱いがちょっとだけ上達したのかな…
「由美さんのお陰で垂線が引けたよ。後は状況証拠を集めるだけだな。俺は今日ゆりかのために有給とってたんだけど、これから本庁に戻って中嶋を重要参考人として任意同行する手続きをとることにするよ」
中嶋社長の鋼鉄のアリバイが崩れ、稔さんは興奮が抑えきれないみたいだ。もう朝食のことも、ゆりかちゃんのことも隅に押しやる意気込みで、すぐさま仕事に戻りたいという気持ちがダイレクトに伝わってくる。
勇み足で駆け出そうとする馬の手綱を引くように、なぜか恵基が車に向かった稔さんを制した。
「稔、お前にちょっとだけ頼みがある。中嶋しょっ引くのは俺が奴にケリをつけてからにしてくれるか? あいつの引導は俺に渡させろ」
相変わらず、自分勝手な奴。何考えてんだか…
「恵基、なに勝手なこと言ってるの。警察の仕事に口出ししちゃダメだよ。殺人事件なのよ。『ケリつける』って、あんたに売られた個人的な喧嘩じゃないんだから! 」
私は思わず恵基をそう叱っていた。
「喧嘩じゃねぇ。俺にとっては戦争だ… 勝手に宣戦布告してきやがったのは中嶋なんだよ」
恵基は、一昨夜のあの激しい瞳を復活させて不気味な苦笑いを浮かべた。
どうして恵基はこの事件にこれ程過剰に反応するのだろう… 私には大きな疑問だ。でも、私より彼との付き合いが長い稔さんとゆりかちゃんは、それをごく自然に受け止めているようにも思える。
「わかった、できるだけそうしてやる。でも、確約はできないからな」
稔さんが承諾した。警察関係者で一本気な性格の稔さんが、恵基の思い通りになるように努力する約束まで交わしてる。どうなってるんだろう?
「サンキュー、稔」
恵基はホッとしたようだ。右手を斜めにしておでこにピタッとつけ、稔さんに警察風の敬礼をすると、助手席のドアを開けて車に乗った。
諦め顔のゆりかちゃんが申し訳なさそうに私に微笑んだ。
「ほんと、刑事ってプライベートないんだから… 由美さん、ごめんなさいね。先週のリベンジのはずだったのに、また予定変更になりそう」
「ゆりかちゃんが謝ることないよ。ここに来ること提案したの私なんだし」
そう返して私もゆりかちゃんと一緒に車へ向かおうとした時、坂の下から1台のバスが姿を現した。この辺を巡回している小さな市バスらしい。花時計の前にあるベンチ近くで停車したバスからは、意外に多くの人が降りてきた。ここは観光スポットとしても紹介されているみたいで、町の案内書のお薦め経路が記されたパンフを持った家族連れやカップルが多かった。行楽客に混じってミュゼの事務所に入る従業員達の姿もあった。今日は日曜日、この事務所は9時から通常営業される。
静かだった昨日の午後とは裏腹に花時計の周囲は朝の活気に包まれている。坂を下っていくバスと入れ替わるように今度はワンボックスの商用バンがやってきた。ウエイターみたいな制服の若いドライバーが降車して、事務所の門の横に設置されたインターフォンを押した。
「おはようごさいます。Mベーカリーです。本日分お持ちさせていただきましたー」
若いドライバーさんのハツラツとした大きな声が私達にもはっきりと聞こえた。
門の鉄柵が滑るようにスライドして、事務所内の敷地に入っていくミニバンの後ろに『Mベーカリー』というポップな字体の文字が確認できた。
「Mベーカリーって、今日私達がモーニングに行くはずだったお店だよね? 」
中嶋社長や恵基が利用しているマリーナの御用達のような人気店。例の睡眠薬入りカナッペもここのデリバリーだった。今朝は、Mベーカリーでモーニングがてら稔さんと恵基が問題のカナッペの件に関してお店の人から話を聞き出す予定だった。
「あの車、配達よね。『本日分』って言ってたから、かなり頻繁にデリバリーしてるのかも… 」
ゆりかちゃんがそう言うと急に早足で車の運転席で私達を待つ稔さんに駆け寄った。
「ねぇ稔、やっぱり一緒にモーニングしてから本庁に行ってよ。真由美さんのカナッペをデリバリーしたMベーカリーとこの事務所って、かなり懇意にしてるみたいだから、捜査に絶対に役立つと思うわ」
私も後部座席に乗り込んだ。Mベーカリーに行けばきっと何かが掴める…そんな予感がした。
2
Mべ―カリーは行楽地としても有名な『海の公園』近くにあった。
赤茶色のレンガと白い縁取りの窓が並ぶブルックリン調のちょっとレトロな建物の内部は白と黒のモノトーンで統一されて、とってもシックな雰囲気だ。
ピカピカに磨かれたガラス製のシンプルなショーケースの中には、ここのイチオシと謳われる各種サンドイッチから、クロワッサンやパリジャン、そしてデニッシュからフルーツスコーンなどが盛沢山に並べられている。焼きたての芳ばしいイーストの香りが漂うお洒落な店内にはイートインスペースも設けられ、緑の公園に面した雰囲気のよい野外テラスも人気みたいだ。
私はゆりかちゃんと一緒に、店の入口の外に置かれたベンチに座って冷たいカフェオレを飲んでいた。
「やっぱり、ゆっくりモーニングってわけにはいかなかったね」
「まあ、こうなることは予測してたんだ。稔って、普段は穏やかだけど捜査のスイッチ入っちゃうと突っ走っちゃうの… ここに立ち寄ったのが奇跡なくらいよ」
そう言ってゆりかちゃんが、責任者と話をしている店内の稔さんに目をやり、諦めたように笑った。
ゆりかちゃんの「捜査に有力な情報が手に入るわよ」発言に釣られてここにやってきた稔さんだけど、警視庁に戻りたくてウズウズしていたからテーブルに着く余裕なんか到底なかった。結局、先週と同じようにテイクアウトすることにして店内に入った稔さんと恵基は、待ち時間を利用してこの店の責任者らしき人と話をしている。
ミュゼの事務所と懇意にしているらしいこの店が事件の日、睡眠誘導剤入りのカナッペをマリーナにデリバリーしている。それを受け取り、社長のヨットでお皿に盛り付けたのは管理人の西さんだ。私は西さんがデリバリーされたカナッペをヨットに運んで盛り付ける様子を見ていた。ボックスはきちんと包装されていたから睡眠薬を混入したのは彼じゃない。
と、いうことは既に配達された時点で薬が入っていたことになるよね?
誰が、どうやってこの店から睡眠薬入りのカナッペをマリーナに運ばせたのか… 稔さんの警察手帳と恵基の諜報テクニックが合体してるだけに、かなりの有力情報が期待できそうだ。
日曜日ということもあり、Mベーカリーの店内は賑わっていた。混みあう店内で4人が立ち話するのも迷惑だろうと考えた私とゆりかちゃんは外で待つことにしたんだけど、「じゃ、これ飲んで外のベンチで待ってて」と、恵基がアイスオーレ奢ってくれた。相変わらずスマートな女子エスコートぶりだ。いつも周りを引っ張りまわして大暴れしてるように見えるけど、実は細やかに気を使ってくれている部分もあるんだってことがちょっとわかってきた。稔さんをサポートしながら積極的に話を進めていく恵基のエキゾチックな横顔を眺めながら、彼が巧妙に隠そうとするピュアな一面に私の心は更にときめいた。
「ねぇ由美さん」
まだ飲み終わっていないアイスカフェオレのカップをベンチ横に置いて、ちょっと戸惑いながらゆりかちゃんが私に声をかけた。
「何?」
「恵基さんから何か聞いた? あのファッションリングのこと… 」
「うん。一昨日の夜、ちょっと話をしたの。恵基の船にあった物だって言ってた… あれって、ゆりかちゃんのだったんだね」
私は一昨日の夜の出来事をゆりかちゃんに話した。
「… でもそれから先は、聞いてない。恵基がなんかすごく苦しそうな様子だったから私、それ以上聞く気になれなかったんだ」
「そう… 」
ずっと下を向いたまま私の話を聞いていたゆりかちゃんが突然顔を上げ、私に微笑んだ。
「由美さん、ほんといい人だね、私、由美さん大好きになっちゃった! 」
「えっ?」
私は驚いてゆりかちゃんの顔を見詰めた。ゆりかちゃんの笑顔はこれまでにないくらい無邪気で、彼女の屈託のない瞳がまっすぐ私を見詰め返している。
「ねえ由美さん、私のお友達になってくれる? もちろん恵基さんとうまくいってほしいけど、それとは別に私はずっと由美さんとお友達の付き合いしたいな」
ゆりかちゃんが、私の傍に体をよせて甘えるように言った。大きな目を益々クリクリさせて、本当に可愛な女子だ。
「もちろんよ! 私もゆりかちゃんのこと可愛くて素敵な女の子だなって思ってたの。お友達になれるなんて嬉しいな」
「私も超嬉しい! これからよろしくね」
叫ぶようにそう言ったゆりかちゃんが私に抱きついてきた。彼女の感情表現ってわりと大胆だ。でも、無垢な気持ちをそのまま伝えてくるゆりかちゃんって、とても魅力的だ。
私の友人だって思うだけで急にゆりかちゃんとの距離が縮んだように感じていた。彼女も同じ気持ちみたいで、お店の前にあるベンチで新しい友人ができた喜びを分かち合いながら暫く他愛のない話で盛り上がっていた私達の前に、先程ミュゼの事務所で見たミニバンが停車した。
運転していた従業員が降車するなり、店から飛び出してきた稔さんと恵基が、その若いドライバーに駆け寄った。いきなり現れた長身の2人に前を塞がれて立ちすくんだ従業員に稔さんが微笑み、警察手帳を見せる。
若い配達員は顔を強張らせた。
「あの… 僕何もしてませんけど」
不安をそのまま顔に映し出した彼の両頬っぺたをいきなり恵基が ふにっ と摘まみモミモミした。唖然として声が出ない従業員に、ふざけたような口調で恵基が口を開いた。
「いやーそこまで顔引き攣らせなくてもいいよー。リラックス、リラックス! この警察のオジサンは、ちょっと君に話が聞きたいだけだからさ。お店のマネージャーに聞いたんだけど、君、よくミュゼの事務所に配達いくんだって? 」
「ミュゼの事務所って、あの綺麗な花時計がある会社ですよね? ええ、殆ど毎日行きますけど… 」
恵基の型破りの行動とちょっぴり馴れ馴れしい言葉遣いに戸惑いながらもその若い男性従業員は作り笑顔で答えた。彼の頬から手を離した恵基が、今度は真面目な顔で尋ねた。
「先週の金曜も配達したってマネージャーが言ってたけど、それ本当? 」
「先週の金曜日ですか… 」
配達員の青年は顎に手をあて少し考えた後、大きく頷いた。
「ああ、はい行きましたね。でも先週は珍しく午後に配達しました」
「あそこの従業員はこの店のデリバリーランチを利用しているそうですね。マネージャーさんの話では、ランチの数はその前日に連絡されて、翌日の午前中に配達されるそうじゃないですか」
警察手帳に目を落として、稔さんが丁寧に話を始めた。
「先週の金曜日は事務所の定休日のはずですが、何故ランチを運ぶ必要があったのですか? 」
「えっ? あの日、定休日だったんですか? 」
配達員は太いまつ毛を高くあげて、そう答えた。どうやら金曜日がミュゼの定休日だということを知らなかったみたいだ。まあ、彼の職場じゃないんだし、配達するだけなら定休日がいつなのかなんて、どうでもいいことだよね。
首を捻りながら先週のことを思い出していた青年が、腕組みをして話始めた。
「そう言われると、先週はちょっと変でしたね。いつもは前日にオーダーが来るから午前中に配達するんですけど、あの日は当日のお昼頃、カツサンドとカナッペをこれから届けてほしいと言われました。お昼時って忙しいんですよ。僕は配達だけしてる訳じゃないんで、昼過ぎてからの配達ということで、承諾してもらったんです」
「オーダーは電話で受けたの? 」
警察手帳にメモしている稔さんの隣で恵基が尋ねた。
「僕が受けた訳じゃないけど、多分そうです。いつも電話ですから」
「で、珍しい午後デリバリーを事務所で受け取ったのは、ショートカットの美人お姉さんじゃなかった? 」
「ええ、確かに髪の短いボーイッシュな人でした」
配達員のその答えに恵基が満足そうに微笑んだ。受け取ったのは間違えなく田口麗子さんだ。
「ああ、そういえばあの日はその後もちょっとあったんですよ」
配達員が何かを思い出し、ポンと手を叩いた。
「配達が終わって店に帰る途中にまた連絡を受けて、ちょっと量が多すぎるからカナッペだけ社長のヨットがある近くのマリーナまで配達してほしいって言われたんです。あそこのマリーナって近いようにみえるけど車だと意外と遠いんですよね。向こうの勝手なお願いだし、面倒くさいから断りたかったんですけど、やっぱ大事な顧客ですからねぇ。結局、また事務所に引き返して、カナッペ受け取って包装し直してからマリーナの管理人さんに届けましたけど、お陰でその後仕事が溜まって大変でしたよ」
稔さんと恵基がお互いに視線を絡ませた。すかさず、恵基がそれとなく確認する。
「最初にデリバリーを受け取った人と君にカナッペを渡した人は同一人物だったんだよね? 例のショートカットのお姉さんだった? 」
「はい、そうです」
カナッペは一旦、事務所にデリバリーさせ、そこで細工してマリーナに運ばせたんだ。休日で他に従業員はいなかったはずだけど、中嶋社長の秘書の麗子さんがいた… 睡眠薬入りカナッペの件に関して彼女が関わっていることはほぼ確実だ。睡眠薬はこの店ではなく、ミュゼの事務所で彼女か中嶋社長が混入した可能性が高い。
配達員との会話を終えた恵基が稔さんに言った。
「これで、中嶋社長が田口麗子の協力で真由美さんを殺害したシナリオが完成するな。俺、これから社長をマリーナに呼び出してケリつけてやる」
「中嶋社長がそう簡単にマリーナに来るとは思えんが… 」
「来るさ。自分が犯した罪を認識していればな」
そう答えると恵基がベンチに座っている私に顔を向けた。
「由美さんはゆりかちゃんと一緒に稔の車で東京に帰りなよ」
「えっ」
私は恵基とここに残るつもりでいたのに、恵基は違った。中嶋社長との『対決』に私が邪魔だと言わんばかりに、いきなり外野へ押しやられた感じだ。私を拒絶するような恵基の態度に私は胸の痛みを感じ、腹が立った。
「… 私、恵基と一緒にここに残るよ」
少し震えた小さな声で私はそう言った。今までずっと恵基に振り回されてばかりだった私が初めて、彼に自分の意思をはっきりと伝えることができた瞬間だった。
恵基は大きな目を見開いて、困ったような表情で苦笑した。
「駄目だよ。相手がどう出てくるかわかんない危険な状況なんだよ。俺、そこで由美さん守る自信ないからさ… 」
「そんな事、わかってる! 恵基に守ってもらおうなんて思ってないよ! 」
思わず、叫ぶような大きな声になっていた。
私と恵基の間の空気が一瞬凍りつき、そしてパリンと歪なひびが入ったような衝撃を感じた。稔さんとゆりかちゃんも、戸惑っている。
大人げない態度をとっていることは自分でもわかっていた。でも、こんな中途半端に元の場所に追いやられるなんて嫌だ。私にとって恵基はただの『イケメン過ぎる後輩』じゃなくなっているのに、上辺だけの仲良しコンビなんかに戻れない… いや、戻りたくないよ!
私の頭の中で、いつかゆりかちゃんが私に言った言葉が繰り返されていた。
―― 恵基さんが好きなら剥きだしの感情でぶつかってあげて…
その言葉に導かれるように、私は恵基に湧き上がる自分の憤りをぶつけていた。
「恵基はいつもそう! まるで自分だけが別世界に存在してるみたいに何でも勝手に決めて、勝手に行動して、勝手に解決して… みんな恵基を見ているのに、恵基を想うのに、あんたは誰も受け入れようとしない。傍にいる私がどう感じて、どう思ってるかなんて、恵基は気付いてもくれない! 散々引っ張り回しといて、最後はひとりでケリつけるから帰れだなんて、私、納得できないよ! 」
「由美さん… 」ゆりかちゃんが、私の腕をそっと引き寄せて慰めるように背中を撫でてくれる。そして稔さんが、穏やかな低い声で諭すように言葉を挟んだ。
「恵基、お前が由美さんを危険に晒したくない気持ちはわかるが… ここまで由美さん巻き込んだのはお前だろ? 由美さんがいなかったらあのアリバイだって解けなかったかもしれないんだ。その由美さんが、成り行き見届けたいって言ってんだから、そうしてやるのが筋じゃないか? 」
恵基に近づいて彼の肩をポンポンと2度叩きながら「そうしろよ、なっ? 」と説き伏せる稔さんは、苦虫を嚙み潰したような表情だ。私を弁護してくれたけど、恵基の親友の稔さんは、本当は彼を1人にしてあげたいと思ってるんだ。それだけこの事件は恵基にとって『大切な何か』が関わっているのだろう。
「…わかったよ、由美さんが好きなようにしなよ」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、私から顔を逸らしたまま恵基が渋々納得した。
ゆりかちゃんが私に笑みを向けて、摩ってくれていた背中の手に力を入れ恵基の前に私を押し出した。
一瞬、目の前の私を呆れたように睨み、恵基は再び溜息をつきながら稔さんに言った。
「稔お前、仕事に戻りたくてウズウズしてるだろ? 俺達はタクシー拾ってマリーナまで戻るから、このまま東京に行けよ」
「ああ、そうする。だが恵基、くれぐれも気を付けろよ。何かあったらすぐ連絡しろ、いいな? 」
それだけ言うと稔さんは、踵を返すように車へ向かい、エンジンをかけた。
「じゃあ由美さん、またね。がんばって… 」
助手席に乗り込んだゆりかちゃんが、私に手を振るのと同時くらいに車が発車した。
ほんの一瞬だけ静寂が訪れた。今朝からここまでたて続けに新たな展開が押し寄せてきていたから、その静けさに私の高ぶった感情も鎮まりつつあった。
「…じゃ、俺達も行くか」
恵基が携帯でタクシーを呼び出した。
これまでの憤りを一気に吐き出した私の心は少し落ち着いて、自分の行動を頭の中で冷静に分析し始めていた。本当にここに残ってよかったのだろうか? 稔さん達と東京に帰っていれば恵基とつかず離れずの『心地よい関係』に戻れたかもしれない… どうして私はここまでして片思いの相手を知ろうとしているんだろう? 報われない愛情で突き進むことに何の意味があるのだろうか…
たった今、自分が選択した行動に対して、もう1人の私が頭の中でそんな質問を繰り返していた。はっきりした答えをぶつけることができないもう1人の私はただ、恵基の大きな背中を目で追っていた。
3
マリーナに向かうタクシーの中で、私達は殆ど喋らなかった。クルーザに戻ると恵基はすぐにキャビンのローテーブルでPCを開いて何か作業を始めた。中嶋社長との『対決』に緊張しているのか、それとも私の先程の言葉が気に障っているのか、何れにしてもいつもの憎ったらしいくらい自信過剰な恵基の姿は跡形もなく消えていた。
これまでなら「由美さーん、まだ怒ってるの? 機嫌直しなよー」と、あのヒヨコ声でわざとらしく私にハグでもしてきただろう。
―― 私、自分の手で恵基との心地よい関係を壊しちゃった… これからどうなるんだろう…
デッキの椅子に1人で座り、穏やかな水平線と青い空にぼんやりと目をやりながら、この3年間のじゃれ合うような関係を懐かしく思い返していた。
「由美さん… 」
キャビンから出てきた恵基が、私に少し距離をとるようにデッキに立った。
「中嶋に連絡した。これからここに来るってさ」
「どうやって呼び出したの? 」
「メールとSMS。船室で発見された指輪とそこにいた人物のことで話がしたい って送信したらすぐに返事きたよ」
そう言って、恵基が私の隣の椅子に腰掛けた。映画俳優のような優美な横顔をちらりと見る。テーブルに肘をつき、遠くの湾に目を向けたままの彼は、いつもと変わりないようだけど、私達の間に流れる重い空気をなんとなく感じてしまう。
「恵基、私が一緒にここに来たこと怒ってる? 」
微妙な居心地の悪さにちょっと弱気になった私は思わずそう問ってしまった。
長いまつ毛の魅力的な恵基の目が私に向けられ、それがそのまま穏やかに細められた。
「いや、怒ってないよ。最後まで見届けたいっていう由美さんの気持はよくわかる。でもこれ以上由美さんを深入りさせたくないって俺が勝手に思ってるだけなんだ。だけど、稔が言ったように由美さんをここまで引きずり込んじゃったから、それに対してのケジメはつけるつもりだよ… 」
恵基が寂しそうに微笑み、私に向けていた美しい瞳をまた遠くの水平線へ移した。
「…できれば由美さんの隣にいる俺は、チャラくて自信家のナルシストでいたかったんだけどな」
恵基がポツリとそう呟いた。
「どうして?」
「俺は、人との深い付き合いができない人間なんだ。だからいつも傍若無人に振る舞っていた。自分が特別枠にいることを誇示すれば、周りも必要以上に深入りしないだろ? 」
恵基は椅子の背に深く凭れ掛かり、頭の上で指を組んで顔を上に向け目を閉じた。まるで何もかも諦めているようなその言葉は、溜息と共に切なくデッキに響いた。一昨日と同じだ。長身の彼が小さく見えた。私は寂しすぎる彼の言葉に対して、いつも感じることを素直に口に出した。
「あんたはいつもみんなから注目されてるよ。恵基自身が素直にそれを受け入れればいいだけなのに、いつもそれを拒否している。恵基は人と付き合えないんじゃなくて、付き合わないだけだと思うけど」
閉じていた目を開き横目で一瞬だけ隣の私を見た恵基は何かを決断したように私と向き合って、まっすぐ椅子に座り直した。
「昨日、ゆりかちゃんが言った言葉覚えてるだろ? 俺はスパイになるために育てられたって… 」
「うん、どういう意味かよく分からなかったけど… 」
あのあと稔さんの登場で場の流れが変わっちゃったから、うやむやな状態で誤魔化されたままだ。
「言葉通りの意味だよ。俺は、物心つく前から横須賀にあった米軍基地の敷地内で諜報工作技術を教え込まれて育ったんだ」
「物心つく前って… 少年時代から? そんなこと許されるの? 」
「当時のCIAが試行した極秘プロジェクトのひとつだったんだ。孤児の中から適正がありそうな子供達を集めて、大人と一緒に訓練させた。まあ、スパイ養成を専門とした孤児院兼寄宿学校みたいなもんだった」
恵基が初めて私に謎まみれの彼の破片を語りはじめた。
冷戦が終了して世界が著しくグローバル化された時期、多くの地域で紛争が勃発した。ユーゴスラビア、コンゴ、アフガニスタンなど数々の内戦の裏で、CIAは少年少女をスパイとして送り込むプロジェクトを秘かに始動させていたんだそうだ。
子供を疑う大人は少ない。人目につかず様々な場所に出入りできる子供が、高い諜報工作技術を身につけていれば… そんな発想で試行されたCIAの極秘プロジェクトは、世界各国に専門施設を設置していたという。幼かった恵基は横須賀の海軍基地内に存在したこの施設に連れてこられた最初の孤児の1人だったそうだ。
「途中で適正なしと判断された子供は、軍関係者の養子に出されたり、ある日突然いなくなったりしてた。訓練中に大怪我して死んだ奴もいたよ。今から考えると地獄みたいな場所だったんだよな… でも物心つく前からそういう環境にいると、それが当たり前の日常になるんだよ」
歌やお遊戯の代わりに、武器の扱いや嘘のつき方を教えられる孤児達… 健全な子供時代を取り上げられ、策略と陰謀の世界に投げ込まれ成長していった子供の多くが精神を病み脱落していき、やがてテクノロジーを中心とした新時代の到来とともにプロジェクトは廃止されたという。
「数少ない成功例となった俺は気が付いたらCIAにいた。経済的には何不自由ない身分だったけど、組織の内部はエリート官僚達の出世をかけた戦場みたいな場所でさ… 現場担当に過ぎない俺達みたいな下っ端の工作員はうっかりしてると捨て駒にさせられる危険がいつも付きまとってた。外部も内部も信用できない世界だったんだ。他人を拒絶することが唯一、俺達が生きのびる手段だった」
「…それで、わざと偽の人格になりきって周囲に壁を作ったんだね」
「まあ、小さい頃から嘘をつくことを習ってるから『人』を演じることなんか簡単だったんだよ。自分勝手なナルシストなんて、みんな呆れて去っていくだろ? 」
華やかな外見と傍若無人な言動、そして最低な恋愛スタンスを翳すプレイボーイ… そんな鋼鉄の隠れ蓑を纏った恵基は、私達が成長する過程で身に付くはずの『感情』を与えられずに育ち、その受け入れ方も知らず孤独に彷徨う男だったのだ。
「そでれも稔さんとは、うまく付き合ってるじゃない? 」
「あいつは呆れるほど懐が深くて包容力あるからな… 稔がそのまま俺を受け留めてるだけだよ。俺が受け入れたわけじゃない」
恵基が苦笑した。
「きっかけはどうあれ、長い間親友でいられるのは恵基も稔さんを必要としてるからだと思うよ。人間は1人じゃ何もできないの。私達の人生って誰かを必要として、誰かに必要とされて成り立っているんだから」
「それは由美さん達がいる世の中の定義なんだよ。俺の世界では通用しない。俺はずっと誰かに必要とされるだけで、俺が必要とする誰かはいつも奪われた… 」
しょんぼりと俯いた恵基の横顔は、ウインク1つで女の子達を虜にしてきたスターのような華やかさを失っていた。自信に溢れた傲慢なくらいのカリスマ性も感じられない。何もかも諦めて自暴自棄になってしまった思春期の少年と喋っているようだった。
「稔さんは恵基を理解して、いつも近くにいてくれてるじゃない? そんな友人って簡単に得られるもんじゃないんだよ。私にはそんな人いない。あんなに素敵な親友と長く付きあってる恵基が羨ましいくらいだよ」
私は思わず恵基を慰め、励ますような言葉をかけていた。あれだけ破天荒に暴れまわってた彼が、まるで10代の不安定な少年に見えてしまったからだ。これまでずっと都合のいいように扱われてきた私が、いきなり彼の拠り所になったような気分だった。
「… 稔との関係は確かに長いけど、それはゆりかちゃんが存在するからだよ。彼女と俺はある意味、同じ痛みを共有しているから… 」
恵基がそこまで言いかけた所で、彼の携帯が鳴った。稔さんだった。
「もしもし稔? ああ… えっ? そうか、ありがとう。…うん、中嶋には連絡したよ。今こっちに向かってるらしい」
警視庁に戻った稔さんが、葉山弥生に関する新たな情報を流していた。恵基はテーブルに頬杖をつき、鋭い目線を中嶋社長のヨットに向けて真剣に聞き入っていた。その姿はつい先程まで人生を投げ出したかのような少年の表情は跡形もなく、いつものチャラいイケメンナルシストでもない。吹き上げる激しい怒りをぶつけるように中嶋社長のヨットを睨みつける彼の横顔は、私が今まで見たこともない不気味な恐ろしさを帯びていた。
―― 恵基とゆりかちゃんが共有する痛み
恵基の過去に関連する大きな傷跡。それこそが、船底で見つかったゆりかちゃんのファッションリングを通して、この事件に関わっているに違いない。だから恵基はこの事件にこれ程むきになっているんだと私は悟った。
第10話: https://note.com/mysteryreosan/n/n96fd5ba8af0c
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