母の日
その日、母は燃えた。
3月のまだ寒い、曇った日だった。火葬場から立ち昇る煙に母の少しでも混じっているような気がして、目が逸らせずにいた。
母は半年前、医者に膵臓癌だと診断された。その時点で医者には末期だと宣告されたし、膵臓癌は見つかった時点で既に手遅れだとよく聞く。だから、こういう日は近い将来、訪れるだろうと思ってはいた。
母は、享年79歳だった。父は母が亡くなる5年前に76歳で亡くなっていた。生前、夫と子どもが不在なときに、母は我が家に来てはプライベートなことに口を出した。私が納得するしないに関わらず、幾度にもわたり同じことを吐き出す。さとしくん(夫)のお母さんの考え方はおかしいのよ、とか母だけの気持ちなのに私も同じ気持ちを持っていると勘違いしていたようだった。そんな母を可哀想だと思おうとしたが、机を叩くと同時にそんな考えは明日に飛んだ。米やらゼリーやらみかんやら手土産に持ってくるのだが、母が帰った後、私に残るのは食道炎のような重い不快感だけだった。
私が学生の頃からそのある種の歪な偏見は見て取れた。母から見ると刺激的な友達と一緒にいるところを見たらしく「あの子の親は性格が悪いんだよ」とこちらを睨め付けてきた。あの顔を思い出すと、未だにはらわたが煮え繰り返って戻らない。
母は天に行った。そのことが私をホッとさせる。それと同時に私はこうなることを望んでいたんだろうか、と考えた。葬儀が終わるまで私は泣かなかった。私が喪主なため忙しかったのもあるが、この不安定で歪な気持ちを持った相手に対して涙は少し白々しいと思った。その気持ちに嘘をつけず、涙ぐみそうになったときでも堪えてしまい、これは我がことながら意味がわからないと思った。
全身、骨だけになった母を見て、ふとこの人も弱いひとりの人間だったのかもしれないと思った。子どもである自分にみずからの気持ちを伝えることが母としての務めであると最期まで思い込んでいた。ただ、やはり愛情はあったのだろうな、とぼんやり感じた。私に幸せでいてほしいという気持ちは本物だった気がする。ただ、その幸せは母の中だけの狭くるしい決めつけだった。愛情の出し方を最後まで歪に間違えきった人生だったのだ。その弱さを私は気づかず、受け止められなかったのだな、と自分の未熟さを思った。しかし、そのことに生きてる間に気づけばよかったなどとは思わない。
明日は母の日。母の墓前に線香と花を供え、墓をキックして元気付けてやるか、死んでるけど。と思えた。