❹ひと夏の経験

 雅の家は薄明かりがついていた。昨日と同じように縁側から覗いてみた。左が仏間。奥がおかってと寝室、風呂場である。さくらは、靴を脱ぎこそっと上がってみた。そろりそろりと音を立てないようにしていた。仏間、おかって、寝室、風呂場の順に覗いた。明度が足りなくてよく見えない。もうモノだけ置いて帰ろうか。ところが、そのとき寝室で人間が動く気配を感じた。

 「雅さん」と声をかけようとした寸前で、しかしさくらは押し止まった。それがひとりの気配ではなかったからだ。少ししたら雅さんの声がした。しかし、昨日きいた雅さんの声ではない。なんと表現すればいいのだろう。両手の指で足りる年数しか生きていないさくらの頭の中の抽斗にその言葉は、まだない。ただ、どちらかと言えば、不快ではなさそう、寧ろ愉しそうである。誰かお客さんとお喋りしているのだろうか。時折、雅さんは高い声を出す。

 なんとなく、自分の知らない雅さんな気がして、さくらは和菓子をその場に置いて家から立ち去った。家に帰り、そのことは両親にも話さなかった。いけないことのような気がしたからだ。
 
 あの時、雅さんは一体どういう顔をしていたのだろう、一緒にいた人にしか見せないのだろうか。もしかして、という予想はある。以前、さくらが夜遅くトイレに起きたとき、ふと両親の寝室をチラリと覗いたら、父と母が寝室でさっきの雅さんと同じ「気配」を漂わせていた。母が愉しそうな声をあげていた。父は無言で母の上に乗っていた。雅さんは、あれを誰かとしていたのではないだろうか。さくらは、その晩なかなか寝られなかった。

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