❶昭和55年の話
蛙が水溜まりを避けてぴょんと跳ねる。
さくらは赤いランドセルを背負ったまま、前屈みでじっとそれを見ていた。雨は4時限目に止んでいた。普段は綺麗に整ったグラウンドの、濃い茶色と薄い茶色が混ざったぐちゃぐちゃが彼女には新鮮だった。同級生が「運動場がぐちゃぐちゃだ!」と口々に言っていたので、あれは「ぐちゃぐちゃ」と言う名前なのだ、と理解した。
さくらはどうしてもこのうす緑色の生き物の触り心地を知りたくて、右手の親指と人差し指を慎重に近づける。だが、相手もそれを察したのか、懸命の力で跳ねる。結局、すぐ近くの家の庭に入っていってしまった。古い木でできた壁に、猫が通れるくらいの穴が空いていたのだ。
さくらは、蛙に誘われてなんとなく庭に入ってみた。古い木造の平屋だった。猫の額ほどの庭に枯れた木が数本あり、昔は活躍していた可能性のあるししおどしが今は老い先短くそこにいた。さくらがそれらに目を奪われていたら、蛙を見失ってしまった。
「さがしもの?」
縁側から30代と思しき女性がさくらに声をかけた。瞬間、さくらは、この女の人はこの家と一緒だと思った。
「うん、蛙がここに入ったんだけど、いなくなっちゃった」
「あらそう、またすぐ出てくるかもしれないわ。暑かったでしょう。それまで、ここでジュースでも飲んでいきなさいな」
さくらの母はジュースをたくさん飲んではダメ、喉が乾いたならお茶を飲みなさい、と言うタイプなので、素直に嬉しくて家に上がり込んだ。