❷雅さん
その女性は雅(みやび)と名乗った。ここに1人で住んでいるという。
「雅さんはどうして1人で住んでいるの?」
「結婚した人がね、10年前に死んでしまったの。子どももいないし、それから私ひとりきり」
さくらはふーん、とオレンジジュースのストローを口にくわえた。縁側のすぐ左手に仏間があり、20代くらいの男の人の写真が飾ってある。写真は10年という月日を思わせるほどには煤けていたが、仏壇も含めて丁寧に手入れされているようだ。雅さんの結婚相手はこの人なのかな、とさくらは思った。
「蛙、出てこないわね。もう7月も終わりだから、舞台を降りたのかもしれないわね」
さくらは雅のその表現が好きだな、と思った。
「さくらちゃん、おうちはどのへん?親御さんが心配するといけないから、送っていきましょうか」
「うん、形振公園のすぐ近くのアパート!」
さくらは蛙のようにぴょんと縁側から地面に下りた。ピンクのワンピースがひらりと揺れる。雅は微笑むと、さくらと手を繋ぐ。雅の左手首が目に入る。夥しいほどの線。線。横が多いが縦に一本太いものがあった。それがなんなのかまるでわからないが、何となく訊かない方が良いのだろうと思った。ただ、雅がひとりっきりでこの家にいるから、家が10年かけてこの線を入れたのではないか、とさくらは感じた。雅の奥の深い微笑みが、何故か悲しく映った。