❹腐っていく桃
その8時間後、マキは既に清潔とは言えなくなったシーツの上で目を覚ました。
隣に黒川はいない。机の上に彼のメモで「精算済みです。ゆっくりしていってください」とあった。
昨夜のことを思い出す。恐らくはずっと気づかないフリで夢見ていた、あまりにも甘いひと時がそこにはあった。
しかし、それよりも気になったのは夫のタカオと娘のかなえのことである。友達の家に泊まる、と彼には言ったが、結婚してから人の家に泊まるなど稀なため、疑われていやしないか、娘は寂しがってはいないか、万一バレたら、という不安が脳内を駆け巡った。
恐る恐る帰宅したものの、夫は仕事でおらず、娘も小学校に行っていて家は無人だった。そりゃそうだ、今日は火曜日だと拍子抜けした。
そして夜になり、帰宅したタカオに「久しぶりに友達とゆっくりできた?」と言われた。気付く気配は微塵もなく、かなえに至っては初めての母のいない夜が新鮮だったのか、楽しくて仕方ないとはしゃいでいたようである。
それからというもの、マキは黒川にハマっていった。だが、彼に関する知識はジムに勤めていて独身ということくらいであった。彼女の有無は訊いたことがない。彼の気持ちはほぼわからない。悟らせないようにしているのか、或いはなにも考えていないのか。前者に見せかけて後者の割合が大きそうだと、彼女は思う。
それからは、どこから出られるのか出口があるのかもわからない高い壁に囲われて、ひたすらあっちこっち体当たりしにいっているような日々が続いた。
勇気を出して連絡してもあまり返ってこないことに、いちいち不安になる。しかし、そもそも、こちらが家族持ちなのだから悠然と構えていないと、という思いもあり、気持ちを表面には出せない。家族といても、黒川のことが頭によぎり、心底、駄目人間だと落ち込む。自分は正真正銘、家族を裏切っているのだ。
なのに、黒川をやめられない。次、ジムにはいつ行けるか、そういえば彼のシフトなんて知らない。そしらぬフリで彼女はいるの?と訊いても敬語で上手くはぐらかされる。彼と会えた夜は飛び上がりたいほど嬉しくて、それを表に出さないように必死だった。
この沼を、抜け出そうと必死に足掻けど、スニーカーにも背中にも泥が入り込み重くて浮き上がれない。なのに、沈んでいくマキをじっと見ているだけのその沼の管理者は、自分の顔をしているのだ。
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